「賣卜先生糠俵・後編」紹介第11回
第二十話・第二十一話(読み下し文、現代語訳)
恩田満
2010.05.09
今回は、「賣卜先生糠俵・後編」の第二十話・第二十一話をお届けします。
第4回から、サーバー容量の関係等により、原文・挿絵の写真版は省略し、読み下し文と現代語訳のみの紹介とさせていただいています。

* 前回迄同様、詳しい注釈および解説については、筆者下記ホームページ内の 「日本の古典」 の項をご参照いただきたいと思います。
(読み下し文の数字を振っている語句について、注釈を付けています)。

    http://onda.frontierseminar.com/

* 本文および注釈・解説などを引用あるいは転載なさる場合は、必ず事前に筆者の了解を得て下さい。

   なお、底本は、「心学明誠舎」 舎員の飯塚修三氏の蔵書から複写したものを使用しています。

近世文書に馴染みのない方は、現代語訳だけをお読みいただいても、心学道話の面白さを味わっていただけます。下記をクリックしてください。(編集者)
   【 現代語訳 】 第二十話→  第二十一話→


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第二十話

 翁、童子(どうじ)を呼んで曰く、「(しばら)く人の()()なるべし。汝も(やす)め。我は見残した(ゆめ)見ん」と、(おしまづき)にもたれて(ねむ)る。

蝸牛(ででむし)出でて()て曰く、「我が①左右(さいう)(つの)(くに)在りて、(つね)(あらそ)ふといふ事②古書(こしよ)に見えたり。③如何(いか)なる義ぞと()ふ人あれ共、④作者(さくしや)其の心を()らざれば、いまだ(こた)へず。如何(いかが)こたへ(はんべ)らん」。

(おきな)の曰く、「是は⑤人身(じんしん)微少(びせう)なる事を(さと)さん為なり。汝も⑥()(うち)れん中なれば、大海(たいかい)()るまじ。⑦世界(せかい)のかぎりなき川々、昼夜(ちうや)をすてず(なが)()れども、()すことを知らず。(ひでり)つゞけ共、()る事を見ず。これにて大海の大海たるを()るべし。扠又(うへ)見れば(ほど)なし。⑧天地四方の大なるは、又々(はか)るべからず。()(はか)るべからざる中に此の大海の有るは、⑨(わづ)かなる(たまり)(みず)のごとし。又下見れば程なし。その潦水(れうすい)の中に国々のあるは、大倉(たいそう)(てい)(べい)にも(たと)へ、粟散(ぞくさん)辺土(へんど)ともいふ。又蒼海(さうかい)(いち)(ぞく)ともいへり。この(あは)一粒(いちりふ)の中に、(から)もあり、天竺(てんぢく)もあり、日本(につぽん)もあり。まづ日本(につぽん)にていふ時は六十余州(よしう)、其の六十余州の中の壱ケ(こく)に又一(ぐん)有り、一郡の内に一(しやう)有り、一荘の中に又一(そん)有り、其の一村の内にも、貴賤(きせん)あり貧富(ひんぷ)あり。大もあり小も有りて、それ/゛\の家を(かま)へ、(それがし)(なん)何某(なにぼう)拙者(せつしや)何屋(なにや)(なに)兵衛(べゑ)などと、⑬我慢(がまん)(つの)()り立てて、(たが)ひに利を(あらそ)ふ事、⑭汝が角に(こく)有りて(あらそ)ふに(たと)へたり。我より又汝を見れば、(わづ)小指(こゆび)にも()らざる(いへ)を、()がもの(がほ)(つの)の目だつ、はかなかりける有りさまかな」

蝸牛(ででむし)(つの)を引き込めて曰く、「我昔是を聞く、『⑮道を知るものは、小をも(すくな)しとせず、大をも多しとせず、()るも(よろこ)びとせず、(うしな)うも(うれ)ひとせず、(しやう)(さいはひ)とせず、死も(わざはひ)とせず』」。

翁、手をあげ、「もう()いは。まあ/\休め」

【第二十話 現代語訳】

 翁は、童子を呼んで、「しばらくは人の絶え間であろう。そなたも休め。私は見残した夢を見よう」と言って、机にもたれて眠った。

 (夢の中に)蝸牛が出て来て、「私の左の角に触氏の国があり、右の国には蛮氏の国があって、互いにいつも争っているということが、古い書物(荘子)に載っている。それはどういう意味ですか。作者がそれを書いた気持ちがわからないので、私はまだ答えていません。どう答えたらいいでしょうか」と翁に尋ねた。

(そこで)翁は、「それは、人間のからだが極めて小さいものであることを悟らせようとするためである。おまえも井戸の中に住む連中であるから、大海があることは知らないだろう。世界中のすべての川が昼夜を隔てず流れ込んでいるが、海は水の満ちあふれることはない。日照りは続いているが、海の水が減ったのは見たことがない。これによって大海の大海たることを知るがよかろう。さてまた、上を見ればきりがないものである。天地という上下の世界、東西南北という四方の世界が広大であることは、これもまた計ることができないものである。その計ることができないほど大きなものの中にこの大海があるのは、それは雨の後にできた小さな水たまりのようなものだ。また、下を見ればきりがない。その水たまりの中に多くの国が存在するのは、大きな倉に入っているひえ粒にも譬えられ、それを粟散辺土とも言うし、蒼海の一粟とも言っている。この粟粒一つの中に、中国もあり、インドもあり、日本もある。まず、日本について言う場合、六十州余りあって、その六十余州の中の一つの国に一つの郡があり、一つの郡の中に一つの荘があり、一つの荘の中にもまた一つの村があり、その一つの村の中にも、貴・賤の者や貧・富の者の区別がある。大もあり小もあって、それぞれが家を構え、『私は何のなにがしである、拙者は何の何兵衛であるぞ』などと、おごり高ぶった気持ちを強く出して、お互いに利益を争うことを、おまえの角にも国があって争っているということを、それに譬えているのである。私からまたおまえを見れば、わずか小指にも足りないほど小さな家を、わがもの顔に角を突き出しているが、取るに足りない有り様であることよ」と答えた。

蝸牛は角を引っ込めて、「私は以前に、『真の道を知っている者は、小であっても少ないとは思わず、大であっても多いとは思わない。また、何かを得ても喜ばず、失っても悲しまないし、生が福で死が禍であるとも感じない』というのを聞いたことがある」と言った。

翁は、手を挙げてさえぎり、「もうそこまででよい。まあまあ休め」と言ったのだった。

(第二十一話・現代語訳へ→)

第二十一話
 翁、蛞蝓(なめくじり)を見、問うて曰く、「①(せみ)()んで()はず、(かひこ)()()まず、汝食らふ()、飲む歟。(いま)だ其の沙汰(さた)()かず。何を食うて(たの)しみとするや」。

蛞蝓(なめくじり)の曰く、「我聞く、『常に②厚味(こうみ)に飽く人は厚味に()れて、厚味を厚味と知らず。たま/\厚味なきに()へば(たの)しまず。(つね)に③麁食(そじき)()るゝ人は、麁食を麁食と覚えずして、麁食(そじき)をたのしむ。たま/\厚味(こうみ)ある時は、又(はなは)(たの)しむ。是によつて見る時は、④(まづ)しきかたに(たの)しみ多き歟」。

(おきな)の曰く、「(しか)らず。⑤(みち)を知らざる人は、(まづ)しければ(くる)しみ、()んでも又苦しむ。道を()るときは、富んでも(たの)しみ、貧しくてもまたたのしむ。翁、道を知つてたのしむとにはあらね共、⑥常にへらず(ぐち)をいう(わら)ふ。()金銀(きんぎん)()たざれば、盗賊(たうぞく)(おそ)れなく、かねの無心(むしん)()()けられても、有るものを()(かほ)して貸さずんば、⑦(そこ)気味(きみ)あしき所あらん。()いを無いというて仕舞へば、底きみ悪ろき事もなし。⑧寺社(じしや)奉加帳(ほうがちやう)なども、(かね)()(しゆ)の五両、三両付かれたをば、不足(ふそく)に思ひ、あの身体(しんだい)にて、五両、三両は(なに)事ぢや。せめて⑨レコ(くらゐ)は付けさうなものなりと、(そし)る人もあれど、我等が百銭(ひやくせん)、二百銭付けたをば(なつ)(とく)して、()(そし)らず。千貫目(せんぐわんめ)()ちが、(にはか)に五百貫目も(そん)をせば、⑩(いし)()()めた様に、気を(いた)めん。()たぬものゝ目から見ては、(のこ)つて五百貫目のかね()ちなれば、結構(けつかう)なる身体(しんだい)⑪気を打つ事はあるまじき事なれ共、()つたが(やまひ)か、心を(くる)しめ(むね)をいたむる。翁は(つひ)に持つてみざれば、此のくるしみかつてなし。家屋敷(いへやしき)をもたざれば、⑫()()根継(ねつ)ぎの世話(せわ)もいらず。借家(しやくや)()みの⑬(かたじけな)さは、町内(ちやうない)小事(こごと)が出来ても知らぬがち、()()の時も気を()まず、(たふ)(もの)が有つても()にならず。諸道具も(すく)()ければ、宿替(やどが)へをするに世話(すく)()く、小借家(こじやくや)の事なれば、(なつ)(しよ)にこまれども、是も下見れば(ほど)なし。又一段(いちだん)我等(われら)より(ちひ)さい(ところ)()む人()て、かゝる(いへ)()んでこそと、(うらや)みし事あれば、(あつ)さも又堪忍(こら)へ安し。扠方々(はうばう)に、(みせ)や⑮(かけ)屋敷(やしき)()ちし人の()らず口を聞けば、『⑯赤紙(あかがみ)の付いた状が()れば、もし出火(しゆつくわ)にてはあるまい()と、見ぬ(さき)(むね)(おど)り、(ふね)怪我(けが)ではあるまいかと、()かぬ内に心遣ひ、⑰大きな(ところ)は大きな(かぜ)(なん)()のと心労(しんらう)多し。(だれ)がためにかく心労するぞといふに、我等(われら)夫婦(ふうふ)に子壱人(ひとり)(わづ)か三人の(くち)()ぎせんとて、大勢(おほぜい)の人を(かか)へ、⑲人形遣(にんぎやうつか)ひの人形に(つか)はるゝごとく、年中此の人に遣はるゝ。(かく)(ごと)くして⑳願以(ぐわんい)()功徳(くどく)(なに)が徳ぞ。21死ぬるとき次の間でひそ/\言ふ者の(おほ)いのと、葬礼(さうれい)(にぎ)やかなばかり也。(ひと)数多(あまた)有りたりとて、()時取り()いでは(わづら)はれぬ。山海(さんかい)珍味(ちんみ)をならべても、22()らふ(ところ)は口に(かな)ふに()ぎず』とは、昔の人の()らず口。     

我また銭なしの(かな)しさは、23初茄子(はつなすび)とて、(あたひ)の高い、(いま)(あぢ)の無い所を()ふ事のならぬと、24(あさ)(うり)のはしりとて、(にが)(うち)賞翫(しやうぐわん)せざるは不自由(ふじゆう)なれども、最少(もそつと)まつて()の安い、ほんの(あぢ)の付いた時、食ふまでと思へば、是とても()にならず。苦にならぬ事を()にして苦をするは、25苦をすることの好きが苦をする。是も又()らず口」。 

【第二十一話 現代語訳】

 翁は蛞蝓を見て、「蝉は水を飲むが何も食べないし、蚕はものを食べるが水は飲まない。おまえはものを食べるのか、それとも水を飲むのか。まだその話を聞いたことがない。何を口にして楽しみとしているのだ」と尋ねた。

 蛞蝓は、「私は、次のように聞いています。『美食を食べ過ぎた人は美食に慣れて、美食を美食と感じなくなる。粗食に慣れた人は、粗食を粗食だと感じないで、粗食を楽しんでいる。たまたま美食を味わう時は、はなはだそれを楽しむ』。このことによって考えてみると、貧しい方にかえって楽しみが多いのでしょうか」と答えたのだった。

 翁は、「そうではない。本物の道を会得していない人は、貧しいと苦しむばかりでなく、富んでもやはり苦しむのである。道を知った人は富んでも楽しみ、貧しくてもまた楽しむ。この翁は、道を知って楽しむというのではないが、いつも自分勝手な屁理屈を言って笑っているのである。何しろ金銀を持っていないので、盗賊に襲われる恐れがないし、金の無心を言いかけられても、金があるのにない顔をして貸さないと、何となく感じの悪いところがあるだろうが、ないものをないと言ってしまえば、感じ悪いところもない。寺や神社の奉加帳に記載された内容なども、金持ち衆が五両や三両と記載されたら、人は不足だと思い、あの身代で五両や三両とは何事じゃ。せめてこれぐらいの金額は寄進してもよさそうなものだと、悪口を言う人もあるだろうが、私などが百銭か二百銭ほど寄進したのを納得して、誰も悪口を言う者はいない。千貫目持ちの大金持ちが、急に五百貫目も損をすると、進退窮まったように、ひどく心配することであろう。金銀を持たない者の目から見ると、残った五百貫目の金持ちであるので、結構な身代であり、憂鬱になる必要はないはずなのに、金を持ったことが病のもとか、心を苦しめて胸を痛めている。この翁はこれまでに一度も金を持ったことがないので、このような苦しみは経験したことがない。家屋敷も持っていないので、屋根の葺き替えや土台の継ぎ足しの世話もいらない。借家住まいのありがたさは、町内で苦情が出て来ても知らぬ顔で、捨て子のある時も気をもまず、行き倒れがあっても苦にならない。家財道具も数が少ないので、引っ越しをする際にも手間が少なく、小さな借家のことなので、夏は暑さに困るけれども、これも下を見ればきりがない。また、私などよりさらに小さい家に住む人が来て、こんなりっぱな家に住んでこそと、羨んだこともあったので、暑さも我慢できないことはない。一方また、あちらこちらに店や貸家を持った人の減らず口を聞くと、『赤紙を貼り付けた回状が来ると、もしや(近所の)出火ではないかと、見る前に胸がどきんとしたり、(あるいは)商売用の船の事故ではないかと、聞かないうちに気を遣う。大規模な商売をしているところは大きな影響があり、何のかのと気苦労が多い。誰のためにこんな苦労をするかと言うと、我ら夫婦に子ども一人、わずか三人の生計を立てようとして、大勢の雇い人を抱え、人形を遣って世渡りをする人形遣いが、人形に縛られた生活をしなければならないように、年中この人たちに使われている。このような状態で、「願以此功徳(望むことはこの功徳でもって)」など何の徳があるか。死ぬ時には、控えの間などで遺産や形見分けを巡ってひそひそと相談するものが多いことと、葬式が賑やかになるだけのことだ。人数がたくさんいるからと言って、病気になった時に精神の束縛から離れられなくては思い悩んでしまう。山海の珍味が並べられても、食べる物は自分の好みに合うものだけである』という昔の人の減らず口だった。

 私のまったく銭のない悲しさは、初茄子といって、値段の高い、まだ味のないものを食うことがないのと、白瓜の初物といって、苦いものを賞味しないのは不自由であるが、もう少し待って値段の安い、本当の味が付いた時に食うまでだと思っているので、このことも何の苦にもならない。苦にならないことを苦にして苦しむのは、苦しいことをするのが好きで苦しいことをしているだけのことだ。これもまた減らず口じゃ」。

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