「賣卜先生糠俵・後編」紹介第13回
第二十四話・第二十五話(読み下し文、現代語訳)
恩田満
2010.06.18
今回は、「賣卜先生糠俵・後編」の第二十四話・第二十五話をお届けします。
第4回から、サーバー容量の関係等により、原文・挿絵の写真版は省略し、読み下し文と現代語訳のみの紹介とさせていただいています。

* 前回迄同様、詳しい注釈および解説については、筆者下記ホームページ内の 「日本の古典」 の項をご参照いただきたいと思います。
(読み下し文の数字を振っている語句について、注釈を付けています)。

    http://onda.frontierseminar.com/

* 本文および注釈・解説などを引用あるいは転載なさる場合は、必ず事前に筆者の了解を得て下さい。

   なお、底本は、「心学明誠舎」 舎員の飯塚修三氏の蔵書から複写したものを使用しています。

近世文書に馴染みのない方は、現代語訳だけをお読みいただいても、心学道話の面白さを味わっていただけます。下記をクリックしてください。(編集者)
   【 現代語訳 】 第二十四話→  第二十五話→


.

第二十四話

 ①虚空(こくう)(こゑ)あつて、「翁々」と()ぶ。(たれ)なるらんと見返(みかへ)れば、漆樹(うるしのき)(かた)()に立つて曰く、「翁、(さき)漆樹(うるしのき)(うるし)あるを以て、(てん)(ねん)()へざるに(たと)ふるはなんぞや。③漆樹に漆あるは、人に人の心有るがごとし。漆樹にして漆なく、人にして人の心なくんば如何(いかん)(せい)(ぜん)自慢(じまん)めさるゝ人の内にも、⑤(かたち)はひとのかたちにて、心は禽獣(きんじう)なるもあり。すがた物ごしは女らしくて、心に(つの)()ひたるもあり。漆樹(うるしのき)(うるし)()ぢざるや」。

翁の曰く、「⑦人に人の心なきは、人に人の心()きにはあらず、()の心を(うしな)へばなり。(たと)へば其の(いへ)にもあらずして、(おのれ)得手(えて)々々の()(げい)()り、家業(かげふ)(わす)るゝものゝのごとし。⑧()きこそ物の上手(じやうず)になり、(つひ)には親の名跡(みやうせき)()て、其の(げい)(おちい)り、芸に身を(たす)けられ、()(わた)る人もあり。是(みな)其の(もと)(うしな)へばなり」。

漆の曰く、「其の本を(うしな)ひ、()(げい)(なづ)み、色に(おぼ)るゝなんどとは、⑪非情(ひじやう)には()い事也。有情(うじやう)もあまり情が過ぐれば、()(げい)(なづ)み、色に(おぼ)るゝ。中にも⑫(おそ)ろしき物の天井(てんじやう)(いろ)なり。武士(ぶし)町人(ちやうにん)も、()いたるも(わか)きも、(そう)(あま)も、現世(げんぜ)未来(みらい)()(うしな)ふものは(ただ)(いろ)。京大坂江戸などの息子(むすこ)手代(てだい)のしくじりを聞くに百人が九十九人半までは(みな)(いろ)(なり)。恐れても恐るべく、(つつし)みても(つつし)むべきは色ならずや。⑬非情(ひじやう)にも又⑭連理(れんり)(えだ)あり、相生(あいおい)の松あり、竹に()(だけ)()(だけ)あれども、(つひ)心中(しんぢゆう)して、()んだといふ(はなし)もきかず、欠落(かけおち)したる沙汰(さた)もなし。()(ゆゑ)、小松が生長(せいちやう)しても、竹の子が()(たけ)()びても、親々(おやおや)気苦労(きぐらう)なし。人、⑯八百屋(やほや)お七の芝居を見ては(なみだ)(なが)し、⑰親にも()()へ身にも()へ、男を思ふ貞節(ていせつ)、家に()()けてなりとも、逢ひたい見たいと(した)心根(こころね)()りとてはしほらしい近年(きんねん)色事(いろごと)し、有りがたい(かたじけな)いと贔屓(ひいき)して()めそやす。我等(われら)非情(ひじやう)の目から見ては、取り(どころ)もないいたづらもの。(むすめ)(ゆゑ)難儀(なんぎ)する親の苦労(くらう)は何共思はず、⑱義理(ぎり)あるかたへは(よめ)入らずして、内証(ないしよう)にて男を()ち、其の男に()ひたいとて、(いへ)に火を付くるとは、言語(ごんご)(ぜつ)した大悪人(だいあくにん)世間(せけん)(むすめ)風上(かざかみ)にも()かれぬ女。是には⑲無理(むり)道理(だうり)()け、悪人(あくにん)とはいはずして、⑳()したかねの催促(さいそく)したり、(よめ)にほしいと(のぞ)(もの)をば、(こひ)邪魔(じやま)する悪人(あくにん)やの、敵役(かたきやく)ぢやのと、21桟敷(さじき)からも()からも(にく)む、おかしき人の心ならずや。()先生(せんせい)(きやく)(いざな)はれ、(はじ)めて芝居(しばゐ)を見られし時、ある人、『(たれ)役者(やくしや)()上手(じやうず)御覧(ごらん)ぜられし』と()ひしに、『22小川吉太郎といふ悪人方こそ、上手なりし』と答へられしも、23(まこと)に先生は先生(なり)と、ありがたく思ひき。たとへ()(すゑ)(やま)(おく)、どんな世帯(せたい)()にすまいと、24一口(ひとくち)浄瑠璃(じやうるり)(かた)るを聞きては(よだれ)(なが)し、(これ)()誠の(こひ)()りかな。親には勘当(かんだう)請くるとも、思ふ男と二人連(ふたりづ)れ、欠落(かけおち)して女夫(めをと)になり、()()れぬ辛苦(しんく)(いと)はぬとは、可愛(かはい)らしき心ぢやと、跡先(あとさき)見ずに()むるはどうぢや。25第一(だいいち)不義(ふぎ)なり不孝(ふかう)なり。是でも(いろ)(こひ)()り歟」と、歯に(きぬ)()せず問ひ詰められ、26()(くろ)めん言葉(ことば)なく、翁、(うるし)()けて閉口(へいこう)

 

【第二十四話 現代語訳】

 大空から声がして、「翁、翁」と呼びかけてきた。誰だろうかとふり返ってみると、漆の木が傍らに立って、「翁は先ほど、漆の木に漆があるということによって、天寿を終えることができないことに譬えたが、いったい何たることか。漆の木に漆があるのは、人に人間らしい心があるのと同じようなものだ。漆の木であって漆がなく、人であって人の心を持たない者はどうだ。人間の性は善であると自慢なさる人の中にも、体は人間の形であって、心は鳥や獣のような者もいる。外見や物腰は女らしくて、心に角が生えている人もいる。(彼らは)漆の木が生み出す漆に恥じないのだろうか」と言ったのだった。

 翁がそれに対して、「人間でありながら人間らしい心がない者は、その人にもともと人間らしい心がなかったわけではなく、その人が人間らしい憐れみの心を失ったからである。譬えれば、自分の家に対しても心そこにあらずの状態で、自分が得意とする妓芸に凝って、家業を忘れてしまう者のようだ。好きだからこそ、その妓芸も上達するが、終には親たちが代々受け継いできた家名を捨てて、その芸にはまり、(中には)芸に身を助けられて世の中を渡る人もいる。これらはみな人として生きる根本を失ったからである」と答えたところ、

 漆は、「人としての根本を失い、妓芸に執着し、色事に溺れるなどというのは、情を持たない木石などにはないことだ。情を持つとされる人間もその思い入れが過ぎると妓芸にふけったり、色事に溺れてしまうが、恐ろしいものうちでも最も恐ろしいのは色事である。武士も町人も、老人も若者も、僧も尼も、その現在および未来を失ってしまうのは、ただ色事によってのみである。京・大坂・江戸などの商家の息子や手代たちのしくじりを聞くと、百人のうち九十九人半までが色事の結果である。もっとも恐れなければならず、もっとも慎まなければならないのは色事ではないのか。非情だとされる物にも、雌雄一体の連理の枝があり、雄松雌松の相生の松があり、竹にも女竹男竹があるが、それらが終に心中して死んだというような話は聞いたことがないし、駆け落ちして行方をくらましたといううわさもない。だからこそ、小松が成長しても、竹の子の背丈が伸びても、親たちの気苦労はない。(ところが)人間は、八百屋お七の芝居を見ては涙を流し、親にも見切りを付けて、わが身の命にも替えて、男を思う貞節や、たとえ自分の家に火を付けてでも、逢いたい見たいと(男を)慕う心根に対して、まったくもって(それは)殊勝なことだ、恋の道を知っている、めったにないほどすばらしい、もったいないことだなどとひいきして誉めそやす。我らのような非情の物の目から見ると、取り柄のない無用な者だ。娘のせいで難儀する親の苦労は何とも思わず、義理のある人の所には嫁入りせず、こっそりと男を作り、その男に逢いたいからといって家に火を付けるとは、言葉では言い表せないほどの大悪人だ。世間の娘たちの風上にも置けない女だ。この女に対して(芝居の中では)筋の立たない理屈を付けて、悪人とは呼ばないで、貸した金の催促をしたり、(この女を)嫁にほしいと望む者を、恋の邪魔をする悪人だの敵役だのと、板敷きの上等な見物席からも平土間の観客席からも敵役だと憎むとは、おかしな人間の心ではないのか。ある先生が客に誘われて、初めて芝居を見物なさった時に、ある人が『誰の役をする人間を上手だとご覧になりましたか』と尋ねたところ、『小川吉太郎という悪人役の人間こそ上手な役者であった』とお答えになったが、通人の先生は本当に通人だったと、ありがたく受け止めたものだ。たとえ野の末、山の奥、どんな所帯でも苦にはするまいと、浄瑠璃の中のさわりの一段を語るのを聞いては、わが身に引きくらべてうらやましがり、彼等こそ本当の恋知りだなあ。たとえ親から勘当されても、愛する男との二人連れで駆け落ちして妻夫となり、慣れない苦労も厭わないとは、かわいらしい心だなどと、跡先も見ずに誉めるのはどうじゃ。(それは)まずもって正しい男女の道に背くものであり親不孝でもある。こんな風でも恋愛か恋知りか」と歯に衣着せずに語ったが、(こうして)問い詰められた翁は、まことしやかに丸め込む言葉も出ず、漆に負けて閉口するばかりであった。

 

(第二十五話・現代語訳へ→)

第二十五話

 ①(けら)(まか)り出て曰く、「翁、何を()(をし)へんとす。②(われ)教へをまたずして(つち)(くぐ)り、(まな)ばずして水上(すいじやう)()き、(なら)はざれ(ども)、少しは()ぶ。人また(をし)へを待たずして()()ひ、(まな)ばずして()く、(なら)はざれども(わら)ふ。③惻隠(そくいん)是非(ぜひ)の心あるも、教へを()(もと)めたるものなる()先生(せんせい)なにをか教へんとす」。

翁の曰く、「なる(ほど)汝が(こと)のごとく、教へを()たずして()き、(まな)ばざれ共笑ふ事、人(みな)(しか)り。④然りと(いへど)⑤其の然る(もと)()らざれば、()くまじき事に泣き、(わら)ふまじき事に笑ふ。惻隠是非の心も習はずして、人皆(これ)あり。然りといへども、其の(もと)を失はざる人又すくなし。(みが)けど(うすら)はず、(そむ)けれど(くろ)まずとは、聖賢(せいけん)の事にして、⑧小人(せうじん)はたゞ(しゆ)(まじ)はれば(あか)うなる。⑨()(そう)(われ)(かた)つて曰く、『(われ)(もと)狩人(かりうど)にて有りしが、幼少(えうせう)にて(はじ)めて小鳥(ことり)()ちしとき、其の鳥の(くる)しむを見て、流石(さすが)惻隠(そくいん)の心あれば、心に(こころよ)からず。()まじき事をせし事よと、(くや)しがりしが、後々(のちのち)()れて何共(なんとも)なかりし也。其の後また(はじ)めて(けもの)を打ちし時、其の(くる)しむを見、其の声を聞きて、惻隠の心なからんや。(はなは)だ心に(こころよ)からず。殺生(せつしやう)は是ぎりとまで思ひしが、是も()れては何共思はず。後にては(かへ)つて(きつね)(たぬき)は心に()らず、(くま)(いのしし)を打たざれば、殺生(せつしやう)せしとは思はざりし。⑩()かく凡夫(ぼんぷ)は物に馴れ安く、(あや)ふきものなり。是を思へば、盗賊(たうぞく)などに()るものも、惻隠(そくいん)(しう)()の心あれば、(はじ)めは心に()ぢもしたり、心に(こころよ)き事もあらじ。()れれば何とも無きやうに成り、後々は小盗(こぬすみ)などは心に()らず、(つひ)には⑪切りどり強盗(がうたう)にもなると見えたり。我等(われら)も道をきかずして、(まへ)のすがたで()るならば、いかばかりの悪人(あくにん)になりもやすらん』と身震(みぶる)いして懴悔(さんげ)(はな)(まこと)()(そう)のいひしごとく、凡夫(ぼんぷ)はものに馴れ安く、(あや)ふきものなり。⑫(いと)の色々に()まるを見て、(かな)しみし人もあり。⑬人の(せい)は善なれ(ども)(をし)へなくして()ならんや。卞和(べんくわ)(たま)も、琢磨(たくま)の後、夜光(やくわう)となる。⑮生地(せいち)安行(あんかう)聖人(せいじん)さへ、『⑯(じふ)(いう)()にして(がく)(こころざ)し、七十にして心の(ほつ)するところに(したが)へども、(のり)()ず』と(のたまは)はずや。汝、(わづ)かの(さい)()(ほこ)り、(みずか)()として、(をし)へを()たずして()れりといふ。是を儒家(じゆか)には、⑱自暴(じぼう)というて()けものにし、仏家(ぶつけ)には、是を我見(がけん)といふて()()はぬ。()(なんぢ)、我が(ちから)人に()え、身に⑳芸術(げいじゆつ)あるに(ほこ)り、おのれに()(もの)なしと思へり。(これ)所謂(いはゆる)21井の内連中。汝が自慢(じまん)芸術(げいじゆつ)に、22柳生(やぎふ)関口(せきぐち)印可(いんか)()へ、汝が自負(じふ)勇力(ゆうりき)に、(また)百人の力を()すとも、翁が目には23井の(はた)の小児、(あや)ふし危ふし」。

(けら)(はら)立てて曰く、「我に百人の力を(くは)へば、芸術(げいじゆつ)はたのまずとも24(たれ)にか天窓(あたま)をあげさすべき。(なに)ものにか()たざるべけん」。

翁、笑うて曰く、「25(ちから)山を()き、術風(じゅつかぜ)()る事を得たりとも、おのれにかつ事(あた)はずしては危ふし/\。其のおのれに()つ事は、学問(がくもん)(ちから)にあらずして何ぞ。汝がごとき、(おのれ)にかつ(ちから)()くして、(つよ)きを頼み、(げい)にほこる(ともがら)は、()なずといへども、26僥倖(げうかう)にして(まぬか)れたる中間(なかま)なり。(さて)また術千人にもすぐれ、力人に()えたるものは、世界(せかい)(こは)いものなしと思はん。是(すなは)ち井の内連中。(なに)ほど(じゆつ)(たつ)しても、何程(ちから)(つよ)うても、(とし)といふ(こは)いものに出合(であ)ひては、手足(てあし)(ちから)(よは)り、(こし)もかゞみ、()も抜け、()(みみ)(うと)くなる。此のとき其の術いづれの所にかある。力いづれの所に()ある。扠また27一統(いつとう)こはひものあり。汝、土を(くぐ)り、水上(すいじやう)(あゆ)み、飛行(ひぎやう)の術有りといふ(とも)一度(いちど)28()(ぐみ)出合(であ)ひなば、其の術共に取りてゆかん。此のときに(いた)り、日比(ひごろ)()何処(いづく)にあるぞ。(つね)に此の所を忘れざれ」。

 

【第二十五話 現代語訳】

 螻蛄(おけら)が出て来て、「翁は、何を教えようとするのか。私は教えを待たなくても土に潜り、学ばなくても水の上を歩き、習わなくても少しは飛ぶことができる。人(の赤子)もまた教えを待たなくても乳を吸い、学ばなくても泣くし、習わなくても笑う。(また、人には)憐れみや善悪を見分ける心が備わっているが、教えを待って身につけたものなのか」と言った。

 翁は、「なるほどそなたの言葉のとおり、教えを待たないで泣き、学ばないけれども泣くこと、人はみなそのとおりだ。そのとおりではあるが、それがそうなる根本のところを知らないので、泣いてはならないことに泣き、笑ってはならないことに笑う。憐れみや善悪を見分ける心は習わなくても、人はみなこれを備えている。そのとおりであるが、その根本のところを失わない人は少ない。どんなに磨いても薄くならず、いくら塗っても黒くならない(というように外力の影響を受けない)のは、尭舜や孔子などの聖人や賢人のことであって、小人物は交わる相手によって善悪のどちらにも感化されるものである。ある僧侶が私に語ったのは、『私はもと狩人であったが、幼少で初めて小鳥を撃ったとき、その小鳥の苦しむのを見て、さすがに憐れみの心があったので、内心では不快な気分になって、してはならないことをしてしまったことだと後悔したが、後々には(それにも)慣れて何とも思わなくなってしまったのだ。その後また、初めて獣を撃ったとき、その苦しむのを見て、その声を聞いて、憐れみの心を感じざるを得なかった。内心でははなはだ不快な気分になって、殺生はこれっきりにしようと思ったが、これも慣れてしまうと何とも思わないようになった。後にはかえって狐や狸では物足りなくなり、熊や猪を撃たなければ、殺生をしたとは思わなくなった。ややもすると凡人は物事に慣れやすく、危険な状態にも陥ってしまうものなのだ。これを思うと、盗賊などになる者も、憐れみの心や不善を憎む心を持っているので、初めは心の中で恥じたりもし、快い気持ちも感じないだろうが、慣れると何とも感じないようになり、その後その後と重ねると小さな盗みなどでは満足できず、最後には人を斬り殺して金品を奪う強盗にもなるものと判断されるのだ。我々も人としての道を学ばないで、今までどおりの生き方をしていたならば、どんな悪人になるのだろうか』と身震いしての懺悔話であった。本当にこの僧が言ったように、普通の人間は物事に慣れやすく、危ういものである。糸がさまざまな色に染まるのを見て、悲しんだ人もいる。人間の本性は善であるが、徳性へ導く教えがなくてはならないのである。楚の国の卞和が見付けたあらたまも、名人が磨いた後には、夜光の珠となった。生まれながらにして道徳の何であるかを知り、安んじてそれを実行することができる(孔子のような)聖人でさえ、『十五歳で聖王の教えである礼楽を学ぼうと決心し、七十歳になると思うままに振る舞ってもそれで道理に外れることがなくなった』とおっしゃったではないか。(それなのに)そなたは少しばかりの才能や知恵を誇って、自らを正しいとして、教えを待たなくても十分だと言った。このような態度を、儒家では、自暴(自分で自分の身を粗末にする者)といって除け者にし、仏家では、我見(自分中心の見方や高慢な見解を持つ者)といって付き合わない。その上、そなたは、自分の力が人よりすぐれ、身に武芸や技術を備えていることを誇り、自分に及ぶ者がいないと思っている。これがいわゆる井戸の中にいて広い世界を知らない連中なのだ。そなたが自慢の武芸や技術などに、剣術の柳生流や柔術の関口流の極意を得た免許を添えて、そなたの自負する勇力に、さらにまた百人力を加えたとしても、この翁の目には井戸の傍にいる幼い子どもに過ぎず、危ないことだ危ういことだ」。

 螻蛄は腹を立てて、「私に百人の力を加えると、(他に)武芸や技術を頼まなくても、誰に勢力を伸ばさせるようなことがあろうか。(私にとって)勝つことのできない何者があろうか」と言った。

 翁は笑いながら、「たとえ山を引き抜くほどの力があり、風に乗って空を飛ぶ術を身につけていたとしても、自分に克つことができなくては、危ないのだ、危ういのだ。その自分に克つということは、学問の力がなくては叶わないことなのだ。そなたのように自分に克つ力がないのに、武力を頼みにし、武芸に誇る連中は、たとえ死を免れたとしても、幸いにして(たまたま)死を免れることができた仲間でしかないのだ。そしてまた術が千人の人よりすぐれ、力が人並みを越えている者は、世界に自分より強い者はないと思うだろう。(だが)これこそ井の中の蛙のようなものだ。どれほどの術に達しても、どれほど力が強くても、歳というこわいものに出会っては、手足の力も弱くなり、腰も曲がり目も耳も疎くなる。そうなった時にその術やその力はどこにあるのだ。さらにまた、もっとも恐ろしいものがある。たとえそなたに、土に潜り、水上を歩き、空を飛ぶ技があるといっても、ひとたびつぐみに出会ったならば、その術と一緒に取り去っていくだろう。その時になって、日頃の我見はどこに存在するのだ。常にこのことを忘れてはならないのだ」と答えたのであった。

 

一覧へ  続きへ