「賣卜先生糠俵・後編」紹介第3回
第四話・第五話(原文、読み下し文、現代語訳)
恩田満
2009.07.15
今回は、「賣卜先生糠俵・後編」の第四話・第五話をお届けします。お楽しみ下さい。

* 前回迄同様、詳しい注釈および解説については、筆者下記ホームページ内の 「日本の古典」 の項をご参照いただきたいと思います。
(読み下し文の数字を振っている語句について、注釈を付けています)。

    http://onda.frontierseminar.com/

* 本文および注釈・解説などを引用あるいは転載なさる場合は、必ず事前に筆者の了解を得て下さい。

   なお、底本は、「心学明誠舎」 舎員の飯塚修三氏の蔵書から複写したものを使用しています。

近世文書に馴染みのない方は、現代語訳だけをお読みいただいても、心学道話の面白さを味わっていただけます。下記をクリックしてください。(編集者)
   【 現代語訳 】 第四話→  第五話→


.

第四話

(つぎ)は@女中(じよちゆう)御目付(おめつけ)(やく)、A不義(ふぎ)のあるない吟味(ぎんみ)する、B守宮(いもり)とは(なんぢ)よな」

(おほ)せの(ごと)くC(うた)にもよまれ、D()にも(つく)られ、E(ふる)書物(しよもつ)(はし)にも()でて、御存知(ごぞんぢ)の上なれば、委細(ゐさい)(まう)さず。F宮女(きゆうぢよ)(まも)るといふ事にて、守宮(いもり)とは()(はんべ)る」

(おきな)(いは)く、「汝を宮女(きゆうぢよ)()()くは、不義(ふぎ)させまじき(ため)にあらずや。(しか)るにG(なんぢ)黒焼(くろや)きは、(かへ)つてH不義(ふぎ)(なかだち)するよし、(おきな)(ほのか)に伝へ聞く。此の()(わけ)有りや如何(いかん)

守宮(いもり)、I()(くろ)になって(いは)く、「()れはJあとかたもなき空言(そらごと)なり。(うそ)()つて()(むさぼ)る、K横道者(わうだうもの)のなす所。L(おぼ)えもなき効能書(かうのうがき)、M石摺(いしずり)にて()りし行燈(あんどん)、N(よる)()(がさ)、O()かりの(はし)らぬ売薬店(ばいやくみせ)、P()()のあるもをかしけれ。此の(くすり)(かぎ)らず、近頃(ちかごろ)は、Q(ふだ)(まは)しの能書(のうがき)にも、R(じん)(やく)とさへいへば、買人(かひて)(おほ)しと()きおよぶ。是もをかしき事ならずや。其の(じん)(やく)をあてにして、()をほしい(まま)()ち、S腎虚(じんきよ)火動(くわどう)(しやう)となり、(つひ)には21(いのち)をとり()(やま)22あだし()(つゆ)()えて()く、はかなしとやいはん、()なりとやいはん」

翁の曰く、「()れは()世間(せけん)沙汰(さた)(なんぢ)は人の不義あるを見出(みいだ)さんとする(いや)(やく)也。()役人(やくにん)(うち)にも23気々(きぎ)有りて、(すこ)しの不義にてもあれよかし。見出して(おのれ)手柄(てがら)にせんと、隅々(すみずみ)まで(のぞ)(まは)(もの)もあり。又(はなは)だしきは、賄賂(まひなひ)取つて見免(みゆる)すもあると()く。その賄賂(まひなひ)()つて見ゆるすなどは、かの不義せしものと、24(いづ)れか(とが)(おも)からん。又少しの不義にてもあれよかし。見出して(おのれ)手柄(てがら)にせんと、すみ/゛\まで(のぞ)(もの)は、人の不義あるをよろこばん。人の不義あるを(よろこ)ぶ者は、25不義同然(ふぎどうぜん)の不義ならん。扠又(さてまた)26律義(りちぎ)(いつ)(ぺん)に、不義はない()、もし見落(みおと)しはあるまいかと、(すみ)の隅まで(うかが)(もの)あり。(おのれ)役目(やくめ)油断(ゆだん)せぬ正直(しやうぢき)なる(やう)なれど、27君子(くんし)()らず。28さればこそ、論語に(いは)く、『29(あば)いて()つて(ちよく)()(もの)(にく)む』とあり、30()(くに)明君(めいくん)目付役(めつけやく)なる(もの)()はせ給ふ。『汝は31人の(あく)あるを見出さんとする(やく)なるか。()しき者を見出さんより、()(もの)を見出し、申し()づべし』と(おほ)せられしとて、()の事を()く者、末々(すゑずゑ)(たみ)(いた)るまで()32仁徳(じんとく)(ふく)せざるはなしとかや」

 

【第四話 現代語訳】

 (翁が)「次の者はお女中のお目付役で、道に外れた男女の関係を調べてそれを正す守宮とは、お前のことであるな」(と尋ねたので)、

(守宮が)「(翁の)おっしゃる通り、(私は)和歌にも詠まれ、漢詩にも作られ、古い書物の端などにも書かれて、ご存知の通りですので、詳しいことは申し上げません。(私は)宮中に仕える女性を守るということで、『守宮』と書きます」と答えた。

 翁は、「お前を宮女に付けて置くのは、宮女に不義密通をさせまいとするためではないのか。それなのに、お前の黒焼きは、その逆で不義密通の仲立ちをすると、この翁は風のうわさで聞いている。その言い訳はあるのか、どうか」と言った。

 守宮は(怒りで)真っ黒になって、「それはまったく根も葉もない嘘である。嘘の宣伝で利益を貪る横道者がしたことだ。身に覚えのない(媚薬や精力剤の)効能書き、白抜き文字を浮き上がらせた行灯(の広告などが出され)、(男たちは)夜に編み笠をかぶって、明かりを落とした売薬店(に行く)。買い手があるのもおかしなことだ。この薬に限らず、近頃はチラシの効能書きにも、精力剤とさえ書けば、買い手が多いと聞き及んでいる。これも奇妙なことではないか。その精力剤を当てにして、わが身をやりたい放題に保ち、(その結果)房事が過ぎて衰弱症となり、最後には、(『徒然草』の言葉ではないが)命を取られて鳥辺山の煙となり、(はかなく)あだし野の露のように消えていく、(これを)はかないと言おうか、(それとも)愚かと言おうか」と答えた。

 翁は(さらに)、「それはまず世間のうわさだ。お前は人の不義密通があるのを見出そうとする嫌な役回りだ。その役回りの人間の中でもそれぞれ気質の違いがあって、少しの不義でもあってくれよ。見つけ出して自分の手柄にしようと、隅々までのぞき回る者もいる。また、ひどい場合は、賄賂を受け取って(不義を)見逃す者もいると聞いている。その賄賂を取って見逃す者などは、かの不義を犯した者と、どちらの方が罪が重いだろうか。また、少しの不義でもあってくれよ。見つけ出して自分の手柄にしようと、隅々までのぞき回る者は、人の不義があることを喜ぶであろう。人の不義があることを喜ぶ者は、不義と同然の非道な行いであろう。ところでまた、実直一途に、不義はないか、もしかして見落としはないかと、隅々までのぞき回る者もいる。自分の役目をおろそかにしない正直者のようではあるが、立派な人物はそういうことをしない。だからこそ、論語でも『他人の秘密を暴露して自分は正直だとする者を私は憎み嫌う』と言っている。ある国の明君(すなわち孔子)が目付役の人間にお訪ねになって、『そなたは人の悪事を見出そうとする役目であるのか。(むしろ)悪事を働く者を見つけ出そうとするよりも、良いことをする人間を探し出して、申し出なさい』と仰せになられたということで、このことを聞いた者たちは、下々の民に至るまで、その仁徳に従わなかった者はいなかったとか(聞いている)」と語った。

 
(第五話・現代語訳へ→)

.

第五話

 「次なるは、(かみ)@槁壌(くわうじやう)()らひ、(しも)黄泉(くわうせん)()むといふA蚯蚓(みみず)とは汝よな。B一寸の(むし)にも、五歩(ごぶ)(たましひ)あると聞く。汝を二つに()るときは、其の二つともに(うご)く。C(いづ)れのかたに(たましひ)あるや」蚯蚓(みみず)(こた)へず。

(おきな)(たん)じて曰く、「D(ゆふ)べに(みち)()(こと)を得ずして、(あした)大道(だいどう)に出でて()す。(をし)へんとするに(みみ)なし。嗚呼(ああ)、E(えん)なき衆生(しゆじやう)()しがたし」

蚯蚓(みみず)、F(せい)をつかし、G(なが)うなり(みじか)う成つて曰く、「(むかし)H()勝仏(しようぶつ)のとき、(われ)()うて曰く、『我等(わがともがら)(なに)()らひて(しやう)をたもたん』仏の曰く、『土を食へ』と、(われ)()(つち)()きんことを(おそ)れて(また)()ふ、『もし土()きば何をか()はん』仏の曰く、『I土尽きば大道に()でて()すべし』と。()(ゆゑ)に、(いま)(いた)りて、J(なつ)土用(どよう)に大道へ()でて()す。ゆゑにK死も(わたくし)ならず、(しやう)も又私ならんや。生死(しやうじ)(すで)に私なし。L(いはん)生死(しやうじ)(ほか)なるものをや」

翁の曰く、「M(わたくし)()きは(すなは)(わたくし)。Nなんぞ私なしといはん。O(かなら)修行(しゆぎやう)()(こと)なかれ」

 

【第五話・現代語訳】

 (翁が)「次に控えている者は、地上では乾いた土を食い、地下では濁った水を飲んで生きているという蚯蚓とはお前のことであるよな。(お前のように)小さな者でも、それ相当の魂があると聞いている。お前を二つに切った時に、その両方がともに動く。(その)どちらの方に(お前の)魂があるのだ」(と尋ねたが)蚯蚓は答えなかった。

 翁が嘆いて、「(お前は)前夜に道を学ぶことが出来なかったまま、翌朝に大道に出て死んでいく。教えようとしても(聞く)耳を持っていない。ああ、いくら言っても聞く耳を持たない者はどうしようもない」と言った。

 蚯蚓は、勢いをなくして、体を伸ばしたり縮めたりしながら、「昔、大通智勝仏の時代に、私が(お釈迦様に)『私の仲間は何を食べて命を保てばいいのでしょうか』と尋ねましたところ、お釈迦様が『土を食べなさい』とおっしゃった。(そこで)私はその土がなくなることを恐れてまた、『もし土がなくなったならば、何を食べればいいのでしょうか』と尋ねました。(すると)お釈迦様が『土がなくなったならば、大道に出て死になさい』とおっしゃった。こういう理由で、今に至っても、夏の土用の間に大道に出て死ぬのです。(お釈迦様の仰せ)ですから、死が私の個人的な意志によるものでなく、生もまた個人的な意志によるものではありません。生きること死ぬことについては、すでに個人的な意志によるものではないのです。まして生と死とが別のものでありましょうか、そうではありません」と言った。

 (最後に)翁は、「私心や私欲を持たないように意識することは、そのまま個人的な意志や欲望があるということだ。どうして個人的な意志や欲望がないと言えようか。決して修行に飽きるようなことがあってはならない」と答えた。


一覧へ  続きへ