「賣卜先生糠俵・後編」紹介第1回
序・第一話(原文、読み下し文、現代語訳)
恩田満
2009.05.16
 「賣卜先生糠俵・後編」は安永七年(一七七八)、鎌田一窓によって、前年出版の前編に続き出版された心学道話である。私は前編の解説本を、大学教育出版から、「占い師『売卜先生』の講話」として昨年出版した。その後、後編の執筆を企画したところ、幸いにも、心学明誠舎舎員・飯塚修三氏所蔵の後編(上)の原本をお借りでき、作業に取りかかることが出来た。非常に優れた道話であるので、作業途上でも一日も早く舎員のお目に掛けたいと思い、順次寄稿することとした。飯塚氏は、本ホームページに、ご父君の遺稿である前編現代語訳を順次寄稿しておられ、引き続き寄稿される意向なので、前後編が同時に本ホームページに掲載されることになる。前編は孔孟思想が中心であるが、後編では老荘思想、とりわけ荘子の思想を随所に取り入れており、ニュアンスの違ったものになっている。その辺りにもご注目の上、ご高覧いただければ幸いである。

見 通

 売卜先生糠俵 後篇

卜 筮

 

虚白斎
 

* 上記作品を十数回に分けて寄稿させていただきます。各回、5〜6ページの長さになる予定です。

1.2ヶ月に一度というペースで翻刻および現代語訳を掲載いたします。なお、これらの詳しい注釈および解説については、筆者ホームページ内の 「日本の古典」 の項をご参照いただきたいと思います。
(読み下し文の数字を振っている語句について、注釈を付けています)。

    http://onda.frontierseminar.com/

* 本文および注釈・解説などを引用あるいは転載なさる場合は、必ず事前に筆者の了解を得て下さい。

   なお、底本は、「心学明誠舎」 舎員の飯塚修三氏の蔵書から複写したものを使用させていただきました。

(恩田 満)
近世文書に馴染みのない方は、現代語訳だけをお読みいただいても、心学道話の面白さを味わっていただけます。下記をクリックしてください。(編集者)
   【 現代語訳 】 序文→  第一話→



凡  例

一 通読の便を考慮して、各講話に漢数字で番号を付けるとともに、必要な濁点を付し、送り仮名や句読点を加えた。

二 会話・心中話は「 」や『 』を用いて示した。また、講話の語り手と相談者との会話が入れ替わるときは、その度毎に行替えを行った。

三 翻刻に際しては、原則として現在通行の字体に拠り、常用漢字表にある漢字については、その字体を使用した。なお、明らかな誤字と思われるものは、正字に改めた。

四 漢文体の語句や文については、漢字・仮名まじりの書き下し文に改めた。

五 底本に付されたルビは、当時の表記法や発音を探る参考とするためそのまま付した。

六 底本の本文を訂正した場合には、本文の後に付けた【校異】に明記し、原態が解るようにした。

七 底本の仮名遣いが歴史的仮名遣いと一致しない場合は、読み仮名(ルビの部分)を含めて、歴史的仮名遣いに改めた。

八 底本にある漢字の当て字は、原則としてそのままとし、読み仮名を付した。

【注】は解釈を中心とし、語句の原典や引用句の説明は最小限に留めたが、それらについては【解説】の項で詳しく述べた。

【校異】のページは通し番号としたが、行数は各講話ごとの本文の行数番号とした。

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売卜先生糠俵 後篇・序

 @翁また何をかいふや、A弁をもつて智を飾らんとする()、Bきのふの(こぬか)(だわら)()なりとして、Cけふの糠俵を()なりとする歟、D(あやま)ちを恥ぢて非を作れるものなる歟、

 答へ、

  Eけふの是もあすは非ならむきのふまでF是とおもひにしことの非なれば

                                             虚 白 斎

G安永七年戊戌正月

 

【序文・現代語訳】

 翁は(前作に加えて)再び何を言うのだろうか。弁舌によって智恵を誇ろうとするのか。(それとも)先日書いた『売卜先生糠俵・全』を正しくないとして、この『売卜先生糠俵・後篇』を正しいとするのか。(または)過ちを恥じて(再び)過ちを犯しているものであるのか。

 その答え、

   今日は正しいということも、明日は正しくないことであろう。(何しろ)正しいと思っていたことが正しいことではなかったので。
                                              虚 白 斎

(第一話・現代語訳へ→)

売卜先生糠俵 後篇・上

第一話 

翁、@売卜のいとま、A(おしまづき)によつて眠り、B夢魂(むこん)広莫(くわうばく)()吟行(ぎんこう)す。C春草(しゆんさう)所得顔(ところえがほ)()(しげ)りたる中に、D麦藁(むぎわら)(いへ)あるをみる。(あるじ)(かはづ)とおぼしくて、E諸虫(しよちゆう)数多(あまた)()()たり。F亭主(ていしゆ)()きの(あか)(がへる)、歌の会にやあるらんと、心とまる(をり)しも、G青漆(せいしつ)の合羽()たる雨蛙、ヒヨコ/\と飛び出で、何やらガワ/\H口上(こうじやう)のべ、案内(あんない)しつゝ(さき)に入る。主の(かへる)(いで)()かひ、I名代(なだい)丁寧(ていねい)両手を突き、「雨中(うちゆう)来臨(らいりん)J(はばか)(おほ)し。かくのごとく小虫(こむし)ども(あひ)(あつ)まり、K毎々(まいまい)(くわい)()(いた)すといへども、L井の内の我々、いまだM大道(だいどう)()かず。(ねがは)くは(をし)へを()けん」

 (おきな)今更(いまさら)(われ)売卜(ばいぼく)なりともいはれず、(せき)(あらた)めN(けん)(だい)()かつて(いは)く、「『O(みち)の道とすべきは(つね)の道に(あら)ず、()の名とすべきは常の名に非ず』(これ)はこれP老先生(らうせんせい)言葉(ことば)なり。いづれも此の(つね)の道は如何(いかが)見られ候ふぞ。一人づゝ(こた)へめされ」

 (かへる)、Qあとじよりして曰く、「R常の(くわい)には()ひを(いだ)し、(たが)ひに答へを(まは)せども、今日は先生S(いま)す。(ただ)()教示(けうじ)(ねが)而已(のみ)」。

 翁の曰く、「(しか)らば()と御手を上げられい。さう(かた)ふては(はなし)出来(でき)ぬ。(さて)21其元(そのもと)は、22不断(ふだん)23両手を()いて(こし)()ばさず、(ただ)24慇懃(いんぎん)25四角四面(しかくしめん)なるを(れい)(おも)へり。26(れい)の礼とすべきは(つね)の礼に(あら)ず。(なんぢ)27(そと)のみ()つて、(いま)(うち)()らざるなり。28姿形(すがたかたち)を礼とはいはず。礼の(かたち)によらざる事を(たと)へていはゞ、(おや)(のど)(もち)がつまりくるしむ(とき)は、()()()(たた)いても(あやふ)きを(すく)はん。(これ)不孝(ふかう)ならんか孝ならん()(なんぢ)がごとき29僻見(へきけん)(もの)は、(おや)()つは不孝なり、(たた)くは無礼(ぶれい)なりとて、30(たふ)るるをまたん。(これ)(こう)()不孝歟。31安宅(あたか)(せき)金剛(こんがう)(づゑ)も、(ちゆう)といはん歟、無礼といはん歟。32(あによめ)水に(おぼ)るゝ(とき)は、手を()るも不義(ふぎ)にあらず、33(れい)なりと()はずや。(これ)()(そと)不義(ふぎ)不孝(ふかう)不忠(ふちゆう)()て、(うち)忠孝(ちゆうこう)(かな)ひ、礼に(あた)る。34(かへる)(つら)に水かもしらぬが、(ここ)をよく聞かれよ。(これ)(みち)(かな)ふ、それは道に(そむ)くなどと、35道を(てこ)(つか)ふ人あり。是は36其の道とすべき道にて、(つね)の道にあらず。常とは37万古(ばんこ)不易(ふえき)をいふ。道とは(なん)ぞ。38(ほん)(ぜん)(めう)(だう)39(した)をもつて()ふべからず、(ふで)(もつ)て書くべからず」。

【第一話・現代語訳】

 翁は占い仕事の合間に、脇息にもたれ掛かって眠り、夢の中で魂が広々と果てしない野原をそぞろ歩きをしていた。春の草が満足げに生い茂っている中に、麦藁の家があるのが見えた。そこの主人は蛙と思われて、いろいろな小動物がたくさん並んで座っていた。主人の赤蛙が好きな歌会なのであろうか、と(翁が)心を留めたちょうどその時、青漆の合羽を着た(ような)雨蛙がヒョコヒョコと飛び出して来て、何やらガワガワと大声であいさつを述べて、(翁を)案内しながら先に入った。(すると)主人の赤蛙が(翁を)出迎えて、小動物の代表として丁寧に両手をついて、「雨の中のご来臨、たいへん恐縮しております。このようにたくさんの小動物が集まり、毎回、自由な意見交換をしていると言っても、我々は(まさしく)井の中の蛙であって、まだ、真の道というものを知りません。願うことは教えを受けたいということです」(と言った)。

 翁は今さら、自分が売卜先生だとも言えず、席を改めて書見台に向かって、「『これが道だと示せるような道は、一定不変の真実の道ではない。これが名だと言えるような名は、一定不変の真実の道ではない』これは老子先生の言葉である。お集まりの皆さんもこの「常の道」をどのように考えていますか。一人ずつお答えくだされ」と言った。

 (主の)蛙が後ずさりして、「普段の会合では(心学に関する)問いを出して、お互いに答えを言い合うのですが、今日は先生がいらっしゃいます。ただお教えを願うだけです」と答えた。

 (そこで)翁は「それなら少し手を上げなされ。そうかたい態度では話ができない。さて、そなたは、平生両手をついて腰をかがめ、ただ礼儀正しく四角四面にかしこまるのを礼だと思っている。これこそが礼であるとするべき礼は、日常的に行う形式的な表面上の礼ではない。そなたは外見的な礼だけを知っていて、まだ内面的な本当の礼というものを知らないでいる。表面的な礼の姿や形を本当の礼とは言わないのである。本当の礼が形に依らないということを例えて言えば、親の喉に餅がつまって苦しむ時は、その子どもは(親を)叩いてでも危ないところを救うだろう。これは、不孝であろうか(それとも)孝であろうか。そなたのような偏ったものの見方をする者は、親を打つのは不孝であり、叩くのは無礼であるといって、死ぬのを待つのであろう。これが孝なのか(それとも)不孝なのか。安宅の関で弁慶が主君の義経を金剛杖で打ちすえたことも、忠と言うのだろうか、無礼というのだろうか。兄嫁が水に溺れている時は、その手を取るのも不義ではなく、礼であると言わないだろうか。これらのことは、外面的には不義・不忠に似ているが、内面的には忠孝に叶って、(本当の)礼に当たるのである。(何を言ってもそなたには)蛙の面に水かも知れないが、ここをよくお聞き召され。これは道に叶う、それは道に背くなどと(いう風に)、道を梃子のような手段に使う人がいる。これはそれが道だと外に示せるような道であって、一定不変の真実の道ではない。常とはいつまでも変わらないことをいうのだ。道とは何か。(それは)自然のままで人智の加わらない真実の道で、(それは)口で言うこともできないし、筆で書くこともできないものである」と答えた。(第一話終わり)

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