澪標 ―みおつくし―

二文のしんこは二文に売る

清水 正博
大和商業研究所代表心学明誠舎専務理事
2016年10月7日

 享保9(1724)年3月21日の昼頃、大坂・南堀江の金谷治兵衛の祖母、妙知宅より出火。折からの南西の強風にあおられ、煙は天を覆う。通りは逃げまどう群衆で阿鼻(あび)叫喚の様相を呈し、家財・貴重品を積んだ大八車、商売道具を風呂敷一杯にして背負う男、子を抱き老人を背負う人々など、こぞって北東へ走る。町火消は必至の形相で南に向かう。人々はぶつかり、持ち出した荷物は道にあふれる。橋は焼け、火焔にさらされた人々は川に身を投じるが、ここでの溺死者も数知れず。

 大阪三郷の3分の2の408町が焼け、一説に死者・不明者は4千人と伝えられる。出火元の名より「妙知焼け」と呼ばれる大火災は、江戸期大坂で最大の惨事となった。

 ここに居合わせたのが石田梅岩。大和から大坂に入り法善寺で休んでいて火災に気付くも、道路は先の如く逃げ惑う人が押し合う。火の粉を背中に浴びながらも、ほうほうのていで夕方、八軒屋に至る頃には天満は一面火の海で、難波橋、天満橋も焼け落ちる。

 梅岩の著『斉家論』に「京橋を渡り片町にて、漸々(ようよう)しんこを見あたる。かかる折りともいわずして、二文のしんこは二文に売る。げに天下泰平一統に治まる御代(みよ)の徳なれや」と記されている。

 やっと火災から逃れ一息ついた所で、しんこ餅という米粉で作った餅を見つけた。ここまで無我夢中で走り、おなかも空いていたことに気付く。定価が二文のしんこ餅だ。火事から命からがら生還した人々が、やっと落ち着いたという状況だから、いくらであろうと多分買ったであろう。しかし二文のしんこ餅は、何ごともなかったように二文で売っている。

 「げに天下泰平一統に治まる御代の徳なれや」。徳川幕府の安定した体制だから定価で物を売れる。この時にしか商人はもうけられないという不安定な状況であれば、一獲千金を見込んで暴利をむさぼる商人がいても不思議はない。しかしそうしない日本の徳はすばらしい、と梅岩は賞嘆しているのである。これは現代の日本でも同様で、どんな悲惨な状況下でも、便乗値上げなどはめったに聞かない。

 大災害時には被災地にヘリコプターで救援物資や食料品を届ける際、海外では決死の覚悟だと言う。うかつに降りると物資や食料品が略奪されるので、空中から投下することもあるという。

 東日本大震災の際、避難所にトモダチ作戦の米軍のヘリが降りると、代表者がここには何人いますと告げ人数分の救援物資を受け取り「まだこの先に困っている人がいますから、残りはそちらへ持って行ってください」と言う。日本の被災地ではそれが当たり前の光景だ。

 いつの時代になっても、どんな大災害が来ようが平常心を持ち、被災者のために尽くす国民でありたい。

 (しみず・まさひろ、奈良県生駒郡)