江戸時代、倉敷の地で石門心学の普及活動を行っていた「敬明舎」を、この度、黒川康徳さんが舎主として再興されました。その再興に掛けた思いを寄稿していただきましたので、掲載させていただきます。 (編集部)  
.心学敬明舎再興物語
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心学敬明舎 舎主 黒川康徳
2016.09.29.
活動を終えたのも定かでなく、少なくとも明治を待たずして息を 絶ったのは間違いありません。してみれば、150年の空白期間を経ての再興だけに、心して取り組まねばとの思いは必然です。  
 敬明舎に限りませんが、江戸後半期において隆昌を極めた石門心学にあって、その衰退の原因をどう捉えるか、それこそが心学敬明舎の再興における目的であり、また使命との認識の下にあります。  
 では、先ず敬明舎の再興の意味するところを認めた文を掲載します。

「石門心学の現代的意味について」
 明治維新からすでに150年の歳月を経ており、当時のこともれっきとした学問としての歴史ページの領域となっています。それはまさに近代化の歴史そのものであり、それはそのまま現代へとつながります。 150年ともなれば五世代もの歳月を経ており、人々の価値観にも大きな変遷を遂げていることでしょうから、それ以前の江戸時代に隆昌を馳せた石門心学を学ぶことが、どれほどの意味があるかとの疑問を抱いたとしても、至極当然のことかとも思われます。
 ただ、歴史的視点からみて、明治以降の社会にあっては、無形資産においては、江戸時代に築かれたその資産の食いつぶしの歴史であって、明治以降において新たに産み出されたものなど殆ど何もないとの観方もあり、私もその見解に与する立場にあります。 しかも、平成の現在にあっては、それもほぼ底を衝いた状況にあり、このまま衰退に向かうか、はたまた新たな資産を産み出すかの瀬戸際にあるのではないでしょうか。
 現代という時代を概観すれば(近代化の成果の一面とするところではありましょうが)極めて高度化しており、あらゆる面がシステム化しており、効率的という面においては、究極の状況といっても過言ではないでしょう。 そこにおいては、国民意識においてもそのシステムに順応することこそが賢明な生き方であって、それに疑問を差しはさむ余地などなく、今日の延長線上に明日があり、そして未来への希望を抱いているのではないでしょうか。 たしかに、そのような形で未来へとつながれば結構なことでしょうが、はたして、それほど楽観視していいものでしょうか。高度にシステム化した社会にあった古代ローマ帝国が、その高度化がそのまま内腐れという、思いを掛けない事態へと凋落していった歴史が物語っています。
 システムの高度化はそのまま社会への従属を意味し、それこそが人々の生き方の模範でもあり、社会の安定にもつながります。ただ、それはあくまで「その時代・社会において」のことであって、歴史的視点からみれば、まったく異なった相に映ることも、ままあるでしょう。なぜなら、そのような時代・社会にあっては、人々の意識は、その社会のシステムに客体化しており、それが苦労のない楽な生き方だからです。
 臨済宗に名を遺す臨済禅師は「随所に主となれ」と名言を遺しています。これを簡単に訳せば「主体性を失うな!」となりましょう。つまり、いつ如何なる場所においても自らの主体性をもって臨みなさい。主体性をなくしてしまえば、すなわち客体化してしまったら、自分自身ばかりかその社会も崩壊してしまうとの警鐘でもあります。
 石田梅岩が生きた時代とは大きな隔たりがあり、その生き様をそのまま当てはめるわけにはまいりませんが、主体性を確立するという点においては同じであって、いついかなる時代にあっても必要不可欠な条件であり、それこそ人類においての普遍的価値に外なりません。しかも、それがそのまま充実した幸福感に満ちた人生にもつながり、また社会の活性化ばかりか、新たな無形資産を産み出すことにもなり、次代に生まれ来る世代への大いなる遺産ともなりましょう。掛け替えのない、一度きりの人生を有意義な形で終えられるのこそ、人として生まれた意味ともなりましょう。
伝教大師は「一隅を照らす」よう促しています。一人ひとりの意識が、そのまま社会に影響を及ぼすのです。まずは自分からです。 いま、石門心学を再興する意味こそ、まさにこのような視点から捉えて貰えれば、その意味も価値もご理解いただけるのではないでしょうか。  
 以上のような認識の下での再興ではありますが、上にも書いたように、単なる歴史の興味からの再興であれば、それがどれほどの評価を得ようとも、いずれ同じ轍を踏むのは免れないと思われます。  
 その的確なる警鐘文こそこれではないでしょうか。

「思想の箴言化」
 梅岩の発想はきわめて伝統的であると同時に、それが教条化されて日常生活訓に転化しやすい点である。彼の思想的道程と苦難に満ちた主教的回心を無視して、自分が「発明」したと思い込めば、あとは彼の語録を基にした日常訓通りに生活して行けばよいことになってしまう。もちろんこれは必ずしも否定さるべき生き方ではない。
 F・ジェイムズが『旧約聖書の人びと』の中で記しているように、偉大なる思想は箴言化したときにはじめて民衆の中に浸透して国民思想となり得るのであって、孤高な大思想家はそういう影響を与え得ず、逆に反撥をうけるのが普通だからである。だがしかし、彼(F・ジェイムズ)も記しているように、偉大なる思想家を灼熱した溶鉱炉にたとえるなら、箴言は、それによって作られ、民衆の間に自由に通用する貨幣のような日常的なものであり、ここでその思想は、思想としての生命も活力も失ってしまうことも否定できない。
 この意味で梅岩自身が神儒仏を貨幣にたとえたこと自体まことに象徴的だが、そのような彼の思想もまた箴言化して通用することは、発展さすべき思想の根をとめて、これを単なる道徳訓乃至は処世訓としてしまうこともまた否定できないのである。(『勤勉の哲学』文庫版 p241)  
これこそ至言というものでしょう。ちょっと難解なので要約すれば、どれほど優れた思想であっても、そのままで社会に普遍化することはない。なぜなら、社会に受け容れられるほど易しくなく、そのままではむしろ排除されるばかりである。それを噛み砕いて易しく説くことによって、はじめて社会に受け容れられるのである。  
 しかし、そこにあっては、既にその本質からはほど遠く、換骨奪胎との感は免れない。それがつまり「思想の箴言化」というわけであります。  
であれば、石門心学を学ぶのではなく、あくまで徹底して梅岩学を探究することにより、その神髄とする「心の追究」となりましょう。それはまた、人々の日常における「心の平安」へと繋がり、延いては社会の安定に寄与することとなりましょう。  
それはまた、梅岩からの新たな発展への展開でもあり、新たな心学の在り方とも言えるのではないでしょうか。  
 そんな途方もない「野心・野望」を抱いての出発でもあるのです。どこまで果たせるかも全く未知数であり、暗中模索の感も免れませんが、梅岩の抱いた世界観を共感する一人として、限りある人生を賭した挑戦でもあります。  
 成り行きを見守って頂くとともに、ご指導・ご鞭撻ほど、よろしくお願い申し上げます。

                 

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