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日本人の嘘
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〜「嘘つきで、しかも正直者」の真相と問題点〜
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井上宏

(2014.1.20)..
1.はじめに

昨年日本は嘘のオンパレードだった。猪瀬知事の選挙資金、有名ホテルの食品偽装、東京電力の原発に関する発表、JR北海道の事故データ改ざんなど枚挙に暇がない。その一方で、滝川クリステルさんは、東京オリンピック招致のプレゼンテーションで、日本人は正直者、「もし皆様が東京で何かを失くしたならば、ほぼ確実にそれは戻ってきます。たとえ現金でも」と胸を張った。

一体日本人は他の国の人々に比べて、嘘つきな方か、正直な方か、どちらだろう?

数年前まで私は、日本人は正直な方だろうと漠然と思っていた。私は、忘れ物が出てきて助かった経験を何度もしている。また、私は江戸時代の市民思想「石門心学」を勉強している。石門心学は正直を大切にする思想だが、江戸時代以来日本人に大きな影響を与えてきたと思っているからである。

しかし、戦国時代や幕末の外国人による日本滞在記を読んで、日本人が嘘つきであると悪し様に罵っているのを知り愕然とし、疑問に思いはじめた。そこに最近の嘘オンパレードである。思い切っていろいろ調べてみることにした。

その結果、日本人は確かに昔から嘘に寛容であったとの印象を持った。しかし、その寛容さは、許すべき嘘と、許すべきでない嘘を峻別する確かな倫理観で裏打ちされていた。日本の庶民の、嘘に対する感覚を示す落語がある。それを材料として、「嘘つきで、しかも正直者」日本人の、真相と問題点を探ってみたい。

 

2.「嘘をつかない」は洋の東西を問わず「倫理の基本」であり、「しつけ」の基本

落語の話をする前に、いくつか確認しておきたい。まず、どの文化圏でも「嘘をつかない」ことは、倫理の基本の一つであり、しつけの基本の一つだということである。

それには、キリスト教・ユダヤ教・イスラム教における最も偉大な預言者モーゼの十戒と、仏教における在家の信者が守るべき五戒を挙げればよいだろう。

◆モーゼの十戒

1.主が唯一の神であること。2.偶像を作ってはならないこと(偶像崇拝の禁止)。3.神の名を徒らに取り上げてはならないこと。4.安息日を守ること。5.父母を敬うこと。6.殺人をしてはいけないこと(汝、殺す無かれ)。7.姦淫をしてはいけないこと。8.盗んではいけないこと。9.偽証してはいけないこと(嘘を言ってはならない)。10.隣人の家をむさぼってはいけないこと。

◆仏教の五戒

五戒(ごかい)、より一般的には「在家の五戒」などと呼ばれ、仏教において在家の信者が守るべきとされる基本的な五つの戒がある。不殺生戒(ふせっしょうかい)・不偸盗戒(ふちゅうとうかい)・不邪淫戒(ふじゃいんかい)・不妄語戒(ふもうごかい)・不飲酒戒(ふおんじゅかい)であるが、この内の不妄語戒(ふもうごかい)とは、「 嘘をついてはいけない」ということである。

◆しつけ

我が国でも、年配の人は子供の時、「嘘ついたら、閻魔さんに舌抜かれるよ」としかられたことを憶えているだろう。教育学者の小泉吉永は、「江戸に学ぶ人育て人づくり」の中で、日本では古来「正直」がしつけの基本であったことを、数々の事例を挙げて述べている。そして、江戸時代に「正直」を庶民第一の徳目として定着させたのは江戸中期の石田梅岩と彼が開いた石門心学の存在が極めて大きいと述べている。

 

3.嘘をつかないことを神仏に誓った日本人

 欧米人が大切な証言をするときには、聖書に手を置いて神に誓うことをテレビなどで見ていると思う。日本でも昔は大切な約束をするときには神仏に誓う誓詞を出した。戦国時代と江戸時代の例を挙げよう。

◆戦国時代−文禄四年(1595)前田利家血判起請文(大阪城博物館)

文禄四年七月八日、秀吉は関白秀次を高野山に追放し、同十五日自害させた。この事件直後、秀頼の守り役を命じられた前田利家が奉行衆に誓詞を差し出した。その五箇条の誓いを書いた後、もし誓いを破ったときは神罰を蒙る旨認めている。その文言は

「右条々若私曲偽於御座候者、此霊社上巻之起請文之御罰深厚ニ罷蒙、今生にてハ白癩・黒癩之重病をうけ、弓箭之冥加七代までつきはて、於来世者阿鼻無間地獄に堕罪し、未来永劫浮事不可有之者也、仍前書如件」

もし誓いを破れば、神仏の罰を深く受け、この世では白癩・黒癩の重病をうけ、子孫七代まで武勲を立てられず、来世には阿鼻無間地獄に墜ち、未来永劫浮かばれないというから恐ろしい。


◆江戸時代−安永四乙未年(1775)の与力惣誓詞(大阪商業大学・佐古文書)

大坂町奉行に新しい奉行が着任すると、与力たちは忠誠を誓う起請文を差し出すが、そこには誓いの條々を書き連ねた後、もしこの誓いに背いたときは、

「梵天帝釈四大天王、総日本国中六十余州大小神祇、殊伊豆箱根両所権現、三嶋大明神、八幡大菩薩、天満大自在天神部類眷属」という実に沢山の神様の神罰を蒙るとしている。

 

戦国時代も江戸時代も、日本人はこれだけ嘘をつかないと神仏に誓っているにも拘わらず、同時代に訪れた外国人は日本人を嘘つきだと激しく非難している。それを次に見る。

 

4.嘘つきと非難された日本人

◆「フロイスの日本覚書」(中公新書)によると、戦国時代に日本を訪れた宣教師ルイス・フロイスはヨーロッパ人(我ら)と日本人の違いについて、「われらにおいては、人に面と向かって嘘つきだと言うのは、(相手にとって)最大の侮辱である。日本人は、それを笑い、粋なこととみなす」(p.134)。「われらにおいては、偽りの笑いは不真面目とみなされる。日本では、それは高尚でかつ品位に富むこととみなされる」(p.138)。「われらにおいては、挨拶は落ち着いた厳粛な顔でおこなわれる。日本人はいつも必ず偽りの微笑でもっておこなう」(p.140

と言っている。

 

◆幕末の日本に滞在したイギリスの外交官オールコックの「大君の都」(岩波文庫)によると、「日本人の悪徳の第一にうそという悪魔をかかげたい。そしてそれには、必然的に不正直な行動というものがともなう」「なんらかの社会的なきずなが存在するためには、結局ことばや誓いというものをある程度信頼しなければならない。ところが、あらゆる階級の日本人の間ではこれ以上度をこせば社会的きずなというものが存在できなくなるほど、まったく真実というものが無視されている」(下pp.127-128)と言う。

 

◆タウンゼント・ハリスの「日本滞在記」(岩波文庫)では、幕府の役人に対して口汚く罵っている。「こうした仕方はすべて、日本の外交の流儀によるもので、かかる事柄に最も大きな馬鹿らしさを示す者が尊敬される。日本人は、率直で真実な政策の価値を知らない。少なくとも、彼らはそれを実行しない。彼らは、真実によって同様の目的が達せられる場合でさえも、虚偽をいうことを躊躇しない」(下p.119)。「日本人の嘘つきは底なしである」(下p.182)「彼らは大の嘘つきである。従って、何時彼らを信用してよいか分からない」(中p.170)「今日、彼らからその返書を受けとる。それは、日本人の奸智と狡猾と虚偽の立派な見本である。・・・・つまるところ、あらゆる詐欺、瞞着、虚言、そして暴力さえもが、彼らの眼には正当なのである」(中p.250)等々数え上げれば切りがない。

 

5.現代の日本人は自分たちのことを嘘つきと思っているか?

◆Jcastニュースから抜粋引用すると、

2013315日に日本テレビ系で放送された「ネプ&イモトの世界番付!」で、「嘘つきな国ランキング」というのがあった。それでは、上位に中南米勢が並び、日本が4位で韓国が15位という結果になっている。

  同番組が発表した「嘘つきな国ランキング」は、「あなたは嘘をよくつきますか?」という質問に「はい」と答えた人の割合から算出。世界39か国3900人以上からアンケートを取ったものだ。1つの国で100人程度のサンプルなので、そう厳密なものではない。

   嘘つきな国の上位は1位ペルー(39.1%)、2位アルゼンチン(33.6%)、3位メキシコ(32.7%)の中南米勢が独占。嘘を気にしない大らかさとプライドが高く言い訳が多い国民性が原因かと番組は分析している。続いて4位に日本(31.8%)がランクイン。スタジオでは出演者も驚いたような表情を浮かべた。

   しかしあくまでランキングは、嘘をよくつくか自己申告で尋ねたものであり、出演したニュースキャスターの辛坊治郎さんは「日本の文化で本音と建前があるじゃない。悪意のある嘘じゃなくて相手を守るためにオブラートに包んだ言い方で…っていうのがうそかなって思う人もいたのかな」と分析した。

  一方で日本が「嘘つき」という結果に納得している人も少なくない。政治家や大企業、マスコミはいつもうそばかりついているというのだ。

  何が嘘かもお国柄によるとして、「本音と建前ってのがあるからなぁ、それを解さない他文化の住人からしたら嘘と言われてもしゃあないとも思うが」「いや日本は人に気使って嘘ばっか言うだろ」と肯定的にとらえて溜飲を下げる声もあった。

 

◆上記はたわいないテレビの調査だが、出演者の発言には的を射たものが多い。一方、学術的な調査でも、日本人はアメリカ人よりも嘘に対して甘いという結果が出ているという。山岸俊男「信頼の構造」(東京大学出版会)によると、山岸が、正直さ・公正さについての日米比較をしたところ、日本人よりもアメリカ人の方が、正直さ・公正さを重視するという、統計的に有意な結論が出たとのことだ。

 

以上見てきたように、日本では昔から倫理としつけの基本を正直に置いてきたにも拘わらず、日本人と接した欧米人は日本人を嘘つきと断じ、また、現代日本人も自分たちが結構嘘をついていると自覚している。これは一体どういうことだろうか。嘘の持つ文化的な意味合いが日本と欧米で異なっているということではないか。それを探るために、日本文化が成熟・完成した江戸時代庶民の嘘に対する感覚を見てみたい。

 

6.落語「子ほめ」に見る、江戸時代庶民の嘘感覚−嘘も方便−

◆落語「子ほめ」/桂春団治・笑福亭飛梅

江戸時代に成立したこの話は現在いろんな咄家が演じており細部が異なっている。私が笑福亭飛梅さん(笑福亭松枝師匠門下)の話を聞いて面白いと思った箇所がある。後に桂春団治師匠の話にも同じくだりがあるのを知った。(このくだりの成立年代は不明)

 

灘の酒とただの酒を聞き間違えて、酒をねだりに来た店子に大家が、「酒の一杯でもよばれよと思うたら、方便の嘘、オベンチャラをこきなはれ」。「方便の嘘、オベンチャラ言うと?」。「ちょっとは人に嘘をつきなはれ、言うことや」。「そらあかんわ、内の婆さんが言うとった。必ず嘘をつくな。嘘ついたら、死んでから閻魔さんに舌抜かれるて」。「情けないな。そら子供の戒め(いましめ)ごとや。この世の中はウソの世の中言うて、嘘で固まったる。仏は方便の嘘、神はジンベン(神変)の嘘。勤めする子は手練手管。オンバさんの子がかわいい。車屋さんの帰り車。商人(あきんど)さんは損や元値で蔵が建つ言うて、損でござります、元値でござります言いながら、どんどん蔵を建ててござる。それが商人さんの方便の嘘、オベンチャラや。害のある嘘はついたらあかんが、つくべき嘘はつきなはれ」。

 

私が面白いと思ったのは

○絶対嘘をついたらいけないというのは建前で、子供の戒めごとだと断定していること。

○仏も神も、方便やジンベン(神変)という嘘をついているのだから、人も必要な嘘はついても良いと言っていること。

○人がついても良い嘘をオベンチャラ、つまり人を喜ばせる社交的嘘に代表させていること。

○他人を害する嘘は、ついてはいけないと歯止めをしていること。

○自分に何かして欲しいなら、まず相手を喜ばせるようなことをしろということ。

 

ここに、ついて良い嘘・いけない嘘、本音と建て前、人付き合い、神仏などに関する江戸期庶民の感覚が詰まっているように思う。これらについて、次にもう少し詳しく見てみよう。

 

◆日本では神仏も嘘をつく−方便の嘘・ジンベン(神変)の嘘−

2.で見たように、日本人も神仏に誓うが、その神仏が嘘をつくらしい。江戸期庶民からすると日本の神仏は至って人間的だ。「嘘も方便」という諺がある。もともとは、法華経方便品(ほうべんほん)第二に、諸仏の知恵は甚深無量で、その知恵の門は難解難入なので、釈迦は無数の方便をもって、衆生を引導されたと書かれていることから来る。「人を見て法を説け」ということだ。それが、嘘も時によっては必要なことがある。使った方が良いこともあるとの意に用いられた。そして、後に嘘の社交的効果を意味するようになったとのことだ。(法華経、小学館「ことわざ大辞典」他)

ジンベンは、「学研全訳古語辞典」によると「神変」と書き、「神が起こす、霊妙で不思議な変化。また、それを起こす神の不思議な力。『じんぺん』『しんぺん』とも読む」とある。つまり、江戸時代の庶民はかなりクールで、神の仕業と伝えられている不思議や奇跡は、人に正しい道を教えるための作り話、嘘と見ているということだ。

 

◆相手を思っての嘘はついても良い。社交の基本は相手を喜ばせること。

この話では、オベンチャラはついても良い嘘だと言っている。多少過剰なほめ言葉でも、それで相手の気持ちが良くなり、人間関係が良くなるなら結構だ。社交の基本は相手を喜ばせることだと言っている。お酒は、その結果として付いてくるものだと言っている。

逆に、自分の言動で相手を不快にさせるようなことを避けるのが日本人だ。現在でも、災害の被害者がテレビのインタビューで微笑をしながら受け答えをしている姿を何度も見る。フロイスなどは偽りの微笑と悪口を言う。なるほど、嘘と言えば嘘であるが、相手に対する思いやりである。外国人の非難は我々の文化に対する無理解から来ると思う。

この話は、主人公がただ酒を飲みたいさもしい根性なので失敗する。落語だから軽く展開するが、その底には、純粋に相手を思っての嘘、「誠」のある嘘は良しとする考えが流れている。

「誠」とは、「内から湧き出る他者のため良かれと思う情を尽くすこと」であり、日本人はこれを昔から大切に思ってきた。次に、この日本人の心の底に流れる「誠」について述べたい。

 

7.「誠」を大切にした日本人−私利に走らず、人のためにこころから尽くす−

◆日本人の倫理意識の柱の一つとして、仏教の「五戒」を挙げたが、儒教も柱の一つだった。江戸時代の儒教は朱子学が中心だった。日本倫理思想史研究の相良亨によれば、当初朱子学で重んじられたのは「敬(つつしみ)」であった。「敬」とは、「まず、威儀を正し、内面の敵である自己に勝つこと−克己−」であると理解された。

しかし、伊藤仁斎や山鹿素行が出るに及んで、「誠」が台頭してきた。仁斎に言わしめれば敬を中心にすえる思想は、しばしば外面の威儀にのみこだわり、内面をおろそかにするもの、また矜持をこととするもの、つまり武士的偏向をあらわに示すものであった。「己を守ること堅く、人を責めること甚だ深く、矜持をこととする姿勢は、自他の暖かい交わりを失わしめるにいたる」と仁斎は嘆く。仁斎や素行は「内から湧き出る他者のため良かれと思う情を尽くすこと」をもって、倫理の根本とした。そして、江戸時代後期の儒者はほとんど、誠をその思想の中心に据えるに至った。

相良亨は、この「誠」は、もともと神道で大切にする「無私・無欲の心」であり、上代では「清明心」、中世では「正直(せいちょく)」と呼ばれた心に等しいとしている。(相良亨「日本儒教の概観」ぺりかん社、菅野覚明「神道の逆襲」講談社他)。
私は、石田梅岩の正直思想も、この延長線上にあると思っている。

 

◆石田梅岩の正直思想

梅岩は「勤勉」「正直」「倹約」、また、「先も立ち、我も立つ」商いを説いた。梅岩にとって、正直と倹約は表裏一体のものである。「倹約斉家論」に「倹約をいうは他の儀にあらず。生まれながらの正直にかえしたきためなり」とある。従って、正直が梅岩の教えの根本である。

梅岩によれば、「正直」の対立概念は「私欲」である。私欲はこの世で最大の悪であり、生まれながらの正直を封じ込めるものである。私欲を無くし、「先も立ち、我も立つ」ことを思うのが正直のあり方であり、商売のあり方である。

「此正直が行わるれば、世間一同に和合し、四海の中皆兄弟のごとし」という。「誠」の概念に通じる。

 

◆ルース・ベネディクトは「菊と刀」(社会思想社)で、日本人の「誠」は、英語のsincerity に対応するとされているが、実際は非常に違った意味を持っていると言っている。英語のそれは、「その人の心を支配している愛や憎しみ、決意または驚きに従って行動すること」であるが、日本では誠は「私利を追求しないこと」「感情に走らないこと」を意味していると言っている。

 

◆以上見てきたように、日本人は「私利私欲無く」相手のことを思う「誠」を大切にした。それで、相手のことを思った方便の嘘も許され、その延長線上で社交上の嘘も許された。それが落語「子ほめ」でのオベンチャラ推奨となったのだろう。ルイス・フロイスの報告した日本人の嘘も、テレビ調査に応じた現代日本人の嘘も、この種の嘘だったのだろう。一方、落語でも私利私欲から出た、相手を害する嘘は駄目とはっきり倫理的歯止めが掛けられている。

 

◆相手を思う嘘と社交的嘘について、少し例を挙げてみよう。回復が難しい病人に向かって、大丈夫きっと良くなりますよと言って、生きる希望を与えるのは前者の例だろう。社交的嘘については、オベンチャラもそうだが、悪名高い「京都のぶぶ漬け」なども一例になると思う。お昼近くになっても帰らない客に向かって、「もうお昼やさかい、ぶぶ漬けなどどうどすか?」と聞くのが、帰って欲しいという合図だとか。これは、帰って欲しいとストレートに告げて、相手の気持ちを傷つけるのを避け、相手が自主的に決断した形を取らせるための配慮だと思う。

 

日本人の許す嘘がこのようなものである限り、これは日本の文化であり、他国人から不道徳な国民であると非難される謂われはない−と言いたいところであるが、ここに一つ問題がある。相手のことを思う、また、相手を害さないという相手が身内に限られる場合は問題だ。異なった集団の相手に対しても誠を尽くすべきなのかどうか。グローバルな世界になり、日本人が海外と接触しなければならなくなると問題になってくる。これはオールコックやタウンゼント・ハリスの非難と関係する。

この問題を考える鍵は、倫理に於ける「身内集団原理」と「開放個人主義原理」の考え方である。次にそれを見る。

 

8.倫理に於ける身内集団倫理(武士道)と開放個人主義倫理(商人道)

◆松尾匡は「商人道ノススメ」(藤原書店)でジェイン・ジェイゴブス「市場の倫理 統治の倫理」という本を紹介しているが、そこでは、世界各地の倫理は次の2系統に分けることが出来るとしている。

市場の倫理:商人に必要とされる道徳、中心価値は他人に対する「誠実」

統治の倫理:軍人などの統治者に必要とされる道徳、中心価値は身内に対する「忠実」

 

◆松尾は前者を「開放個人主義原理」の道徳、後者を「身内集団原理」の道徳と呼ぶ。

そして、日本の「武士道」を「身内集団倫理」とし、石田梅岩や近江商人による「商人道」を「開放個人主義倫理」としている。

松尾は、武士道を美化する最近の傾向に対し、これからの日本に必要なのは「商人道」であると結論づけている。最もキーとなるのは、「見も知らぬ他人にもわけへだてなく誠実であれ」ということであるとしている。

 

◆この考え方を加味して、オールコックやタウンゼント・ハリスの日本人嘘つき論を検討してみよう。二人が接触した日本人は主に幕府の役人と開港地の商人たちである。まず、商人の嘘について見てみる。二人とも商人たちの様々なごまかしに、苦い目にあっている。しかし、そもそも開港地の商人たちは日本各地から集まった山師的な人間が多く、普通の商人でないことは、英国外交官アーネスト・サトウも認めるところだ(サトウ「一外交官の見た明治維新」岩波書店)。開港地の商人で、日本の商人を推し量ってもらっては困りますと言いたい。

私は近世古文書を勉強しているが、江戸時代が高度の契約社会であったことに驚いている。少なくとも商人たちの間では契約で物事が進み、その裏には松尾の言う「開放個人主義倫理」が流れている。石門心学の隆盛、近江商人道、商家の家訓などを見ても分かる。

 

次に、幕府の役人たちはどうか。これは二つの観点から考えなければならない。一つは、幕府が置かれた立場である。オールコックやタウンゼント・ハリスは軍艦と大砲をバックに幕府と交渉していたのである。幕府には権謀術数以外に武器はなかったとも言える。オールコック自身も、外交官は世界中どこでも嘘つきであると言っている。彼らと折衝した幕府の役人は皆、外交官としての役割を負っていたのだから、嘘つきであっても当たり前だったかも知れない。その上、金銀貨幣交換比率の問題がある。ハリスは幕府を恫喝して日本に不利な交換比率を取り決め、それにより自身の蓄財を図った。そのため日本から金が大量に流出し日本経済は大混乱に陥り、幕府崩壊の真因となった。幕府はそれを少しでも食い止めようと、交易に様々の制約を課したが、ハリスにはそれが嘘と映ったようだ。しかし、詐欺師ハリスに日本人の嘘を非難する資格はない。(このことはオールコックもハリスを非難している。佐藤雅美「大君の通貨」文芸春秋社に詳しい)

 

今一つは、現代日本にも通じる、松尾の言う武士集団の「身内集団倫理」である。武士は武士道に生きる集団であり、もちろん誠を大切にした。しかし、その誠を尽くすべき相手は同じ武士集団の身内である。農工商は支配の対象であっても、誠を尽くす対象ではない。諸大名は大商人から巨額の借り入れをしていたが、しばしば踏み倒した。そのため大名貸しをしていた商人が窮地に陥ることもしばしばだった。同じ日本人に対してそうだから、武力で脅して開国を迫る外国人が誠を尽くすべき対象であるはずはない。幕府の役人が外国との約束を守らなくても、それは幕府を守るためにしたことで、個人の利欲のためにしたことではないから、担当役人は一向に罪悪感を持たなかったに違いない。それが条約の遵守を外交の基本と考えるオールコック等を怒らせ、日本人を嘘つき呼ばわりすることとなった。

 

◆この武士道の身内集団倫理から来る嘘は現代の日本にも横溢している。しばしば見られる企業犯罪はこれによるものが多い。株主を欺く粉飾決算では、担当者は自分の利益のためにしたことではなく、企業を守るためにしたという意識だから、罪悪感は希薄である。先般のJR北海道の事故データ改ざんでも、担当者は会社を守るためにしたと言っている。東電の原発事故データ発表でも同じことだろう。現代の企業は、あたかも昔の藩のように、身内集団倫理で動いていると言って過言ではない。しかし、これからの世の中が、この身内集団倫理で良かろう筈がない。グローバル化が進展していけば尚更のことである。

 

◆幸い日本には江戸時代から商人道がある。石門心学も近江商人道も、誠を尽くすべき相手を商売の相手だけでなく、世間一同に置いている。松尾の言うように、これからの日本は武士道を称揚するのではなく、商人道の浸透を図っていかなければならないだろう。

 

9.結び

以上、落語を材料に日本人の嘘を見てきた。嘘の無い世の中が望ましいのは勿論だが、古来日本人は嘘に寛容であったと言えよう。方便の嘘、その延長線上としての社交的な嘘も許してきた。ただ、それは嘘に相手のためを思う、私欲の無い「誠」がこもっている場合であった。残念ながら今日の日本は、私欲が幅をきかせ、誠のない嘘が横行している。私欲は社会の絆を断ち切る。仁斎の言う「誠」、梅岩の言う私欲の無い「正直」を誰に対しても大切にする心を取り戻さねばならない。石門心学を推進する心学明誠舎の役割は大きい。

 

【あとがき】

私が日本人の嘘に興味を持ったのは、数年前、大阪商業大学で開かれた古文書講座に参加したことに始まる。講師は三重大学名誉教授で大塩事件研究会会長(当時)の酒井一先生。テキストが、オールコックが江戸参府をした際に通過した村々による、費用分担に関する訴訟文書だった。それで私は参考として、オールコックの「大君の都」を読んでみた。そして驚いた。日本人を大嘘つき呼ばわりしていたからだ。私は酒井先生に疑問をぶつけてみた。酒井先生は面白い視点だから、調べてみられたら如何ですかとおっしゃった。

 それで私はタウンゼント・ハリスやアーネスト・サトウの手記、その他関係がありそうな文献を読み、一応の納得を得た。その後そのままになっていたが、最近笑福亭飛梅さんの落語「子ほめ」を聞いて、これぞ近世庶民の嘘感覚だと膝を打った。そこに食品偽装・JR北海道のデータ改ざんなど次々に起こったので、この文章をまとめてみる気になった次第だ。

 酒井先生は残念ながら故人となられたが、泉下で私の駄文に苦笑しておられるかも知れない。

                                    以上
( 2014.01.20 )

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