平成25年サマーセミナー・中村春作教授講演
「教養」の再生と「実学」の意義−
を聴いて

以下の文章は、舎員福山琢磨氏が、標記講演を聴かれた感想と講演の概要をよみうり自分史教室で発表されたものです。同氏の許可を得て、下記に転載させていただきました。
前半に講演の要旨と感想、後半にテープからの抄録があります。
   

よみうり自分史教室 平成25年7月22日         福 山 琢 磨

[平成二十五年度明誠舎サマーセミナー]を受講

「心学明誠舎」へのいざない

「心学」といえば、石田梅岩が浮かぶ。江戸時代中期の思想家である。士農工商の武家社会では、商人が人の作ったものを仕入れ、高い値段で売り、利益を得る行為は人道に反するとして、さげすまれた。しかしこれは決して卑しいものではなく、正当な営利活動であることを教えるとともに、勤勉と倹約を奨励した思想家として高く評価された。

 こうした石田梅岩の思想を学び、広めようと活動されているグループの一つが大阪に本部を置く「心学明誠舎」である。

 会長を大阪21世紀協会理事長の堀井良殷氏が、また専務理事を下野譲氏がお務めである。下野氏からは昨年、会員のお一人である下田幸男氏をご紹介いただき、氏の著書『今日に生き未来に活かす石門心学』を上梓させていただいている。会員の中には『大阪春秋』の愛読者も多いというので、このたび入会させていただいたのである。

 「サマーセミナー」で中村春作教授の講座に学ぶ

初参加が67日、さいかくホールで行われた「サマーセミナー」で、会員である中村春作氏が「『教養』の再生と『実学』の意義」のテーマで話された。氏は昭和28年徳島県出身で、広島大学文学部を卒業、大阪大学大学院文学研究科博士課程では子安宣邦教授に師事された。

研究書には『江戸儒教と近代の「知」』(ペリカン社、2002)がある。この書は国民国家論を軸に、近世から近代にかけての日本の儒教を中心とする学知の形成過程について論じている。

講演は、東日本大震災で街の書店が果たした驚くべき役割から進められたので、全身耳にして聞き、本の使命を再認識し、意を強くした。

中盤の「近世日本思想のなかに、知的公共圏の発生を見る」は難しそうなタイトルだが、懐徳堂のような学問所がどう形成され、国力になったかで、興味深く、多くのヒントを得ることができた。

最後の「5.」は「生きた知としての教養の再生」であった。先生の言わんとされた内容が凝縮されていた。

@「教育的改革」が繰り返し唱えられ実施されるが、表面的なものでしかなく、根本はもっと深く、現代社会の性格そのものに起源する。

Aあらゆる場面で「先生、それはなんの役に立つのですか」と問いかけてくる生徒たちの姿勢の背後に、すべては対価交換されるべきであるとする、悪しき市場万能主義の姿が見える。

B「教育の消費者」である立場から、当然その対価を明確に求める権利があるという生徒たちの主張は「何のために役立つのか」という近視的な功利主義の主張として表面化してきている。

C「教養」の概念の意味づけは、大正期以降たびたび変容してきました。しかし当事者である私たち教員も、その肉付けの論理を見失ったまま、そして一方では自らが体験した、懐古趣味的な教養意識を同居させたまま、今日に至ったというのが事実なのではないでしょうか。

D日本では大学の設置基準変更があり、大学ごとに自由に教養教育、専門教育の配分を考えてよいとされた結果、専門教育重視=教養教青軽視、場合によっては廃止という事態が生じました。これは今日の専門研究(特に理系の)が先端化、細分化した結果でもあり、また社会に出てすぐに役立たない学問は不要とする経済界からの強い要請に応えたものでした。そしてその結果、きわめて限定された小さな領域のことしか知らない学生、応用の利かない、想像力の欠如した研究者が横行することになり、いままた、あらためて「教養教育」の再生が唱えられたりしているのです。

 Eこれに類した話は、私自身、教育現場で現実に体験したことでもあります。しかしながら教育や学習は、目に見えるかたちで対価が支払われるものではありません。またその効果というものは、すぐには目に見えません。市場万能主義社会=学生・両親・社会の要求と、長期にわたる学問・人格の形成を考える教師側の意識との間の裂け目は、どんどん深まるばかりです。しかしこれは社会や経済界、父兄ばかりの責任とは言えません。私たち教育者の側にももっと発信すべきことがらがあった、と私は考えます。それはたとえば、現代の多くの大学教員が、「教養」教育の意味を見失ってしまった点に見いだせます。

 F政治思想史研究者、苅部直は、政治学もまた「教養」の一科目として捉え得ることを指摘しています。すなわち、「「実感」に満ちた、身近な生活範囲をこえるような社会の紐帯が、さまざまなフィクションを通じて、複雑に作りあげられている」のが「社会」であり、その「社会」を成り立たせるもっとも高度なフィクションが「法」であると捉えるならば、そのフィクションとしての「法」を運用する政治学そのものもまた、一種のフィクションの言語体系に他ならない。そうした言語によるフィクションの体系のシステムを、その根幹から認識する「ちから」こそが「教養」なのだと言うのです。

G  私は「教養」を、現実世界の表層に自らの視界を埋没させずに、現実世界を、その内部から読み解いていく「ちから」のことと再定義したいと思います。私たちの前に在るのは、目の前を通り過ぎる情報としてのインターネット空間の剃那的な情報ではなく、テキスト本ではないでしょうか。人の思考力は、「早い情報」のなかで促成栽培されるものではなく、「遅い情報」(本)との格闘のなかでしか、鍛造され得ないものだと、私は信じているからです。

 含蓄の満ちた結論です。

以下、録音から内容を要約した。

1.東日本大震災と街の小さな書店

 二〇一一年三月十一日午後、私たちはかつて経験したことのない大災害に見舞われました。東北部を中心とした大地震と、あの大津波です。そのとき、私は自宅でテレビを見ていたのですが、慌ててテーブルの下に隠れました。そしてテレビでリアルタイムで映し出される世紀の大惨事を見てしまったのです。どす黒い大波が、街を、車を飲み込んでいく悪夢を今も思い出します。

 昨春、震災、津波から一年を経て、多くの雑誌が特集を組んでいました。その中に一つ、興味深いものがあったので、まずはそれを紹介します。それは『週刊ポスト』(2012,3,9)の、「3・11から一年 復興の書店」と題した特集です。副題は「本は生活必需品だった」でした。この雑誌はしばらく前から、「復興の書店」という特集を継続し掲載していて、震災、津波直後の大混乱の時から、実は被災地で町の小さな書店(本屋さん)がなんとか露天でも店を再開しようとしたこと、また、生きるのにも大変な状況であるのに、人が飢えたように本を求めたということを断続的に掲載していて、私に深い印象を残しました。この特集では特に地域の小さな書店を特集して、彼らの生の声を伝えると共に、どんな本が被災者に求められたかを示しています。

よく売れた本としてあげられているのは、まず辞典であり、手紙の書き方、マナーの本であったと記事は伝えています。被災した人々が、遠いところに住む友人や助けてくれた人に連絡を取り、お礼を言うのに必用だったということです。そして思いがけないベストセラーに『10年日記』と、航空写真入りの『海釣りガイドブック』があったことを記しています。日記は、こういうときだからこそ、あえて将来をしっかり構想するために人々に求められ、ガイドブックは、そこに載せられている被災前の沿岸部の美しい姿を見るため、懐かしい思い出を眼に焼き付けるため求められたのでした。実用の書だけではなく、いわゆる「硬い」本、人の生き方を論じた本も求められたことを、この特集は記しています。そして「被災地で売れる本には理由がある」「私たちは本の力を信じたい」と語りかけます。

 ところで、この特集の冒頭ページには、笑顔いっぱいの女性書店員の写真が載っています。佐藤純子さんという大手書店チェーン仙台支店の店員さんです。彼女が勤めているのは、現在、日本最大で専門書籍を最も多く揃えるジュンク堂という書店チェーンの支店なのですが、この店は、震災後いち早く店を開いたことで知られています。実はこのジュンク堂という書店は、本店が神戸市(三宮)にあり、そこから全国に広がっていった書 店チェーンなのです。ご存じのように、今から17年前(1995,1)神戸を中心とする大地震が発生し、きわめて大きな被害をもたらしました。そのとき、一面焼け野原のなか「早く書店を開けて欲しい」という被災者からの要求に応えて店を再開したのが、このジュンク堂の社長であり、その経験を基に、仙台支店も震災後すぐの再開を目指したのです。「こんなときに誰が本など読むか」ではなく「こんなときこそ本を読みたい」ということだったのです。この写真の女性、佐藤純子さんは、ご自身のプログ(「私は本になりたい」)を持っておられて、そのなかで、書店再開の喜びを記しておられます

『二〇一一・四・五 「私たちはまた本屋になりました」」

ジュンク堂書店仙台ロフト店は

昨日から営業を再開しました

わいわい!ひやつほう!

もうもう、うれしくてうれしくて

昨日も早起きしちゃいましたが

今日も早起きです

(…中略…)

みなさんと、つながっていられること、ありがたくて

うれしくて、しあわせです

ほんとにほんとにありがとう!

(…中略…)

今日も明日もあさっても

来週も再来週も来月も再来月も来年も再来年も

私たちは、本屋です

ずっとずっと本屋です

(…中略…)

本を、ことばを、きもちを、ちからを

届けるお手伝いをさせてください

また、これから、ずっとずっと

本がみなさんの、あなたのちからになりますように

ほんのちからもひとのちからもしんじてます

ことばのちからもしんじてます

揺れたあの日から、すべてのことばの意味が変わってしまったけれど

それでも、やっぱりことばはだいじでたいせつで

(…以下、略)

心に秘み入る美しい文章です。特にひらかなで記された最後の数行は胸の奥に響きます。何も無いときでも本が読みたい、いや、何も無いからこそ本が読みたい。そしてその「ちから」で人とつながりあいたい。佐藤さんの気持ちが直に伝わってきます。

2.ポストモダンの時代の「知」

 この雑誌特集でとりあげられているのは、昔から街中にある小さな書店と地域の人との つながりなのですが、実はこうした、街なかの小さな書店は、いまどんどん無くなりつつあります。グローバリゼーションの巨大な波は、東北地方のみならず、日本全国の村々にまで押し寄せています。本は巨大なチェーン店かアマゾンで直接購入するのが普通になり、近所の小さな本屋のおばさん・おじさんと購読者との直接の結びつきは、断ち切られつつ

あるのが現実です。二〇一一年一年間で、全国で三百六十五軒の「本屋さん」が閉店したそうです。

(『夕刊フジ』2012.5.25)

私は長く大学教師をしていますが、学生たちが本屋に毎日のようにでかけて新刊書を物色するという習慣はすっかり姿を消したようです。本屋さんだけに限りません。地域の小さなコミュニケーションの場や、生身の人と人のコミュニケーションの機会が、どんどん減少・衰退しています。私が大学生だった七十年代前半、多くの人が毎日のように入り浸っていた街の「小さな喫茶店」は、どんどんつぶれてしまって今はほとんど見かけなくなりました。その代わり町中に溢れているのは、スターバックスやドトールの、こぎれいで均一化されたチェーン店のコーヒーショップばかりです。そこで人は、会話や読書を楽しむのではなく、(カップルが話もせずに!)ひたすら各自のスマートフオンを無表情に操作し続けています。情報がインターネットに載って世界大に同時化する一方で、「生身の小さなコミュニケーションの空間」がリアリティを喪失しつつあるとも言えるでしょう。

 かつて、ドイツの哲学者、ユルゲン・ハーバーマスによって、議論する公衆や公共性の起源として論じられた、市民のサロンや喫茶店における公共的空間は、その歴史的生命を喪失し、いまはそれがインターネットの仮想空間に取って代わられたように思われます。

そしてそれは、私たちの「知」の姿そのものをも変質させてしまいました。

文化人類学者、青木保は、情報を「早い情報」と「遅い情報」に二分し、インターネットに代表されるような、目の前を刻々通り過ぎる「早い情報」に対して、すぐには効果を示さないものの、本質的なところから「知」として体内化されてくる「遅い情報」の重要性と、その復権の必要性を説いていますが、さきほど述べた、今回の被災地における「本」「活字」の復権を目にするとき、もう一度、自らの「知」の在り方を問い直してみるべき時期に来ているのではないか、と私は思うのです。

 いま言及しましたハーバーマスの著書、『公共性の構造転換』(1962)のテーマは、「未完のプロジェクト」としての「近代」の救済に向けて、「市民的公共圏」に元来あったはずの「コミュニケーション的合理性」を救い出すことにありました。彼はまず、十七〜十八世紀西欧において成立した、「国家」から自立した領域としての「市民社会」が、市民

たちによる自由で批判的な討論の「場」から作り出されたと論じています。そして、家庭など「親密圏」を超えて、サロンやカフェにおいて交わされる芸術や文芸をめぐる討論を経由して形成される「共同性」を、彼は「市民的公共性」を構成する「公衆」の特質としてとらえました。こうしたブルジョア的「公共圏」はまず、サロンやカフェなどで芸術を

語り合う「文芸的公共圏」として成立し、そこでの意見交換や討論を経て、国家を含む公的な話題を語り合う「政治的公共圏」が成立したと彼はしています。読書や討論を介して為される「国家」の外側の批判的空間がそこに成立した、と彼は考えたのです。そして彼はそうした「公共圏」がなぜ近代西欧で堕落してしまったのかを本書で問うています。

ハーバーマスが議論した六十年代から、世界はさらに大きく飛躍し急速に変容してきました。グローバリゼーションの急速な拡大と同時に、世界内に新たな「市民」とは何か、「公共性」とは何か、という「近代」に発生した課題が、ポストモダンの今日、あらためて新鮮な課題として立ち現れてきたのだと思います。急速に展開する世界規模の高度情報化の嵐のなかで、指針となるべき学問や共有する「知」を喪失したまま、私たちは止めどない情報、分散化した情報の大海を漂っているようです。私たちは、いま一度、自らの生の生活や自らを取り巻く小さなコミュニケーションの場に密着した、共有する「知」、互いにつながり合う「知」の世界を取り戻す時期に来ているように思われます。

最初に紹介した雑誌特集の、震災直後の書店の復活、本を求める人たちの声、「いきるちから」としての本へのまなざしは、そのようなことを私に想起させました。忘れかけていた「知」の原初のちからを、私に思い出させました。ここでは、そのことを、私の専門である思想史の場面から考えてみたいと思います。

3.近世日本思想のなかに知的公共圏の発生を見る

 日本思想史において「知」の「公共性」を語るとき、しばしば言及されるのが江戸時代、大阪の町中にあった、懐徳堂という学問所のことです。では懐徳堂という学問所は、どういう学校で、そこでは何がどのように学ばれていたのでしょうか。

 懐徳堂とは、享保九年(一七二四)、江戸時代、商人の町、大阪に、商人たち、町人自身の手により創立された学問所の名です。「懐徳」という名称は、『論語』のなかの「君子懐徳(君子は徳を胸の内に懐く)」に由来します。学校を作った人たちは、五同志と呼ばれた、裕福で好学の町人たちで、それぞれの職業は貸家業、醸造業、問屋、小売業などでした。これは江戸(東京)に作られた幕府直属の学校(昌平坂学問所)とは大きく性格を異にします。学校は代々、基本的に町人たちによる出資金およびその利子で運営されました。そして、明治二年(一八六九)にいったんその門を閉じますが、大正時代にまた再建され、その後、かたちは変えつつ、今も市民に対する啓蒙活動や学習講座を運営しています。

 懐徳堂の学校としての特徴と性格を端的に示すのが、学校の玄関に掲げられた「壁書」(学校規則)です。それは、「学問するのは、道徳を完成させ、職業を勤め上げるためであるから、たとえ教科書(書物)を持っていない人でも、授業を自由に聞くことができる、としています。この学校で学ぶのは儒学(特に朱子学)ですが、当時、支配階層(武士)ではない人たち(町人)が、「自ら」の学問として主体的に儒学を学んだという点にこそ意義があります。儒学は古代のテキスト(経書)の解釈(注釈)を通じて今の世界の問題を考える学問です。町人にとって「生きた」学問の姿が鮮明に現れています。そして、そのようなかたちで、近代に至るまで、市井の人々が、儒学を自らの学問として、脈々と学びつづけたことの意義を、私は考えたいのです。彼らにとって「本を読む」ということは、たしかに、現実の生活と密につながっていました。生業と表面的にはつながらないけれども、その営みを底で支えている、そういう意味での「実学」でした。

4.江戸時代における「学び」の姿

 江戸時代後半、特に一八○○年代に、日本全国に寺子屋、私塾、藩校と呼ばれるきわめて多くの学校が創立されたことは、よく知られています。教育史の研究者は、それを「教育の爆発」の時代と呼んだりします。寺子屋とは、町の知識ある人たちが、子供たちを教え育てる小さな学校(寺に付随して作られた場合もあったことから、一般に、寺小屋(てらこや)と呼ばれますが、必ずしも仏教とは関係ありません)、私塾とは、江戸時代の思想潮流を担った学者たちが日本全国各地で開いた学校(江戸時代の学問の多くは、支配階層(武士、大名)以外の町人たちによって支えられました。この点は、同時期の同じく儒教を学問の主流とした、中国、朝鮮と大きく異なる点です)。藩校とは、当時三百程度に分かれていた国々(藩)で、主として武士の子弟に学問を授けるために設けられた公立学校です。いくつかの統計によれば、一六○○年代から一七○○年代にかけて漸増してきた私塾や寺小屋は、一八○○年代に入って急増し、十年単位で百校以上の増加を繰り返すようになります。それらはすべて民間の学校でした。もちろん公的な学校、藩校も同様の展開を示しています。これは、その実在を文書等で確認できたもののみの総計ですので、実数はもっと多かったと思われます。なぜこの時期に、こうした「教育の爆発」が起こったのかについては、いくつかの意見がありますが、ここでは省きます。その他にも、江戸期に始まった「国学」という、日本独自の歴史や文化を重視する学問も、当時普及しだした大量木版出版に担われて、全国各地で読まれるようになります。この「国学」の読者は多くの場合、地方の上層農民でした。たとえば平田篤胤(1776-1843)という学者の書物は、地方の素封家の手で続々と自主出版され、辺境の山奥の農民にまで普及します。後に明治維新の一つの原動力になった政治グループも、そうした読書グループから発生しました。

 こうした現象を前にして私が関心を持つのは、いったい人々はなぜこのように学問を欲っしたのだろう、なぜこんなに一生懸命本を読んだのだろうか、ということです。知られるように、江戸時代は士農工商に区分された世襲の身分制社会でした。農民の子は農民でした。にもかかわらず、彼らはなぜ自ら学んだのでしょう。そこで学ばれたことがらは、彼らにとって、決して自分の外側のことがらではなかったということです。寺子屋の学習は、一般に「読み、書き、算盤」と称されるものであり、そのなかに道徳的徳目が埋め込まれているものでした。

知識は手紙の書き方という実践的な方法で学ばれました(「往来物」と総称される書物群が大量に出回りました。「往来・おうらい」とは手紙の往復を意味します)。学問は文字通り「実学」だったのです。町人に好んで学ばれる儒学も下層武士が学ぶ儒学も、遥か昔のお題目ではありませんでした。それを学ぶことは、生の生活、生き方とつながっていたのです。そして、彼らの知識欲を支えたのは、当時実現した大量出版物の流通でした。その頃ある学者が、「昔は先生を探して遠く出かけなければ勉強できなかったが、いまは本さえあればいつでも勉強できる」(江村北海)という発言を残しています。彼らはまさに、本を媒介にして世界につながり、本を読むことによって今の生活の意味を考えたのです。

「学ぶ」ことと「生きる」こととの間に隔てはなかったのです。さきほど述べた、大阪の町人の学校、懐徳堂の儒学などは、まさしくその典型と言えるでしょう。こうした「学び」の姿、「学び」の喜びは、なぜ今日姿を消してしまったのでしょう。

5、生きた「知」としての「教養」の再生

 今日、日本では、教育の荒廃が長らく議論されています。最近では八十年代に「つめこみ教育」の反省から、また「落ちこぼれ」の学生をなくす目的で、政府主導で「ゆとり教育」が提唱、実施され、しかしながら、その結果「落ちこぼれ」は全く解消されず、逆に、学力が全体的に落ちてしまったという反省がしきりになされます。かくて、制度はまたまた改変されることになりました。政治家にとって、教育は、常に格好の世論受けする話題でもあり、繰り返し「抜本的改革」が唱えられ、そのたびごとに教育の現場も当事者の学生も大混乱を来します。好んで教育を論じる人は、制度を変えれば何かが抜本的に変化するかのごとき幻想をばらまきます。しかしながら、そうした諸方策は表面的なものでしかなく、根本はもっと深く、現代社会の性格そのものに起源するものであると説く論者もいます。

社会学者、内田樹は、今日の「学びから逃走」し「労働から逃走」する若者たちの姿に、市場社会万能主義の反映を見ています。あらゆる場面で「先生、これは何の役にたつんですか」と問いかけてくる子供たちの姿勢の背後に、すべては対価交換されるべきであるとする、悪しき市場万能主義の姿を、彼は見いだしています。「教育」の消費主体である自分たちは、当然、その対価を明確に求める権利があるという生徒たちの主張は、「何のために役に立つのか」という近視眼的な功利主義の主張として表面化する、と内田はいうのです(『下流志向』2007)

 事実、これに類した話は、小学校だけではなく、私自身、教育現場で現実に体験したことでもあります。しかしながらいうまでもなく、教育や学習は、目に見えるかたちで対価が支払われるものではあり得ません。またその効果というものは、すぐには目に見えないし、ひょっとしたら生涯かけても分からないままかもしれません。市場万能主義社会=学生・両親・社会の要求と、長期にわたる学問・人格の形成を考える教師側の意識との間の裂け目は、どんどん深まるばかりです。しかしこれは社会や経済界、父兄ばかりの責任とは言えません。私たち教育者の側にももっと発信すべきことがらがあった、と私は考えます。それはたとえば、現代の多くの大学教員が、「教養」教育の意味を見失ってしまった点に見いだせます。

 「このごろの学生には教養が無い」という嘆きは、昔からある年配者の常套句です。この頃の学生はドストエフスキーも知らない、夏目淑石も読まない、カントもデカルトも知らない……、といったおなじみの嘆き節(「教養の崩壊!」)です。しかしこういう批判は決して若者の心に達することはないでしょう。なぜなら、ここで言われる「教養」とは、ある年代以上の高等教育を受けた世代に共通する読書体験に基づくものであり、それはそれで、一定の歴史的条件下の「できごと」に過ぎないからです。実際、「教養」概念の意味づけは、大正期以降たびたび変容してきました(その起源は、大正期以前にはさかのぼれません)。そして戦後は、アメリカのリベラルアーツという概念の代名詞としてもっぱら使用されてきました。今日の大学における、教養教育・専門教育という区分がそれに該当します。しかしながら、当事者である私たち教員も、その肉付けの論理を見失ったまま、そして一方では自らが体験した、懐古趣味的(大正期の旧制高校風の、特権的な)教養意識を同居させたまま、今日に至ったというのが事実なのではないでしょうか。この間、日本では大学の設置基準変更(これまた、市場主義からなされた「改革」)があり、大学ごとに自由に教養教育、専門教育の配分を考えてよいとされた結果、専門教育重視=教養教青軽視、場合によっては廃止という事態が生じました。これは今日の専門研究(特に理系の)が先端化、細分化した結果でもあり、また社会に出てすぐに役立たない学問は不要とする経済界からの強い要請に応えたものでした。そしてその結果、きわめて限定された小さな領域のことしか知らない学生、応用の利かない、想像力の欠如した研究者が横行することになり、いままた、あらためて「教養教育」の再生が唱えられたりしているのです。

 私たちはいったいどこで間違ったのでしょう。「学び」の喜びをどこで失ってしまったのでしょう。その一つの原因は、「実学」という概念の捉え損ないにあると私は思います。

現在、「実学」ということばを辞書で引けば、たとえば「習得した知識や技術がそのまますぐ社会生活に役立つような学問。商学・工学・医学などの類」(『明鏡国語辞典』2002)とあります。ここにはもちろん、文学も歴史学も哲学も入りません。「教養」などは、もっとも「実学」から遠い概念となるでしょう。これはまさしく、現代日本の「実学」意識を反映した説明と言えるでしょう。しかし本当にそうなのでしょうか。明治期に「東洋になきものは、有形に於て数理学と、無形に於て独立心」(『福翁自伝』)と述べ、学問と自己の独立を一体のものと捉えた福沢諭吉(1835-1901)が、「人間普通日用」に近い学として提唱した「実学」は、決してそのようなものではなかったはずです。あるいはまた、懐徳堂の町人たちが、一見迂遠に見える儒学経典を自らの学問とした姿勢とも異なります。私たちは、現代の経済中心主義的な短絡的「実学」理解から、一度脱却する必要があります。怒涛のように押し寄せるグローバリゼーションのただ中で、市場主義万能、対価主義万能の思考がメディアや教育界を掩いつつある現在、私たちも教育の現場から、新たな生きた「知」として、「教養」を「実学」として脱構築し、その意義を提唱していく必要があると私は考えています。

 政治思想史研究者、苅部直は、政治学もまた「教養」の一科目として捉え得ることを指摘しています。すなわち、「「実感」に満ちた、身近な生活範囲をこえるような社会の紐帯が、さまざまなフィクションを通じて、複雑に作りあげられている」のが「社会」であり、その「社会」を成り立たせるもっとも高度なフィクションが「法」であると捉えるならば、そのフィクションとしての「法」を運用する政治学そのものもまた、一種のフィクションの言語体系に他ならない。そうした言語によるフィクションの体系のシステムを、その根幹から認識する「ちから」こそが「教養」なのだと苅部は言うのです(『日本の現代5 移りゆく「教養」』2007)。苅部が説くように、今日求められる「教養」とは、単なる読書趣味や該博な知識のことではありません(もちろん最低限「知識」は必要です、特に今の若者に対して)。私は「教養」を、現実世界の表層に自らの視界を埋没させずに、現実世界を、その内部から読み解いていく「ちから」のことと再定義したいと思います。そう考えるとこの課題は、私たちを取り巻くあらゆる領域の背後に潜んでいます。そうした「教養」への問いを内在させた「学び」こそが、真の意味で「実学」と呼ばれるべきなのではないかと私は考えています。そしてそうした絶えざる試みを鍛錬する素材として私たちの前に在るのは、目の前を通り過ぎる情報としてのインターネット空間の剃那的な情報ではなく、テキスト(まさしく、多様な問題や視点が「テクスチュア=織り込まれた」)本なのではないでしょうか。人の思考力は、「早い情報」のなかで促成栽培されるものではなく、「遅い情報」(本)との格闘のなかでしか、鍛造され得ないものだと、私は信じているからです。

 

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