商業と商人道の復権を目指して


舎員  藤野 孝夫  .

13.02.07   

はじめに

 アルジェリアでのガス採掘プラントでのテロによる株式会社「日揮」の社員の犠牲者に心からの哀悼の意を表したい。立派なお仕事ありがとうございました。政治家の中には、そんな危険なところに邦人を行かせることを黙認するようなことは許されないという発言をする方がおられるが、私はそこに商業の本質を、改めて見たような気がしてならない。物資を在るところから無い処、欲しい処へ流通させる。この流通こそが商業の本質である。本稿では、そのことを、考えて見たい。そして、ややもすれば現代社会においては、商人の影が薄くなったようなので商人の復活と、商人の心意気の復活をを江戸期商人道徳の啓発に苦心した石田 梅岩先生の思想や、近江商人の商業観の現代的な意義を考えて見たい。

商業の本質

 この文は、研究論説ではないので、これまで私が読み聞きしたことから頭に残っていることを吐露をする形なので、目を通される方の中にはおかしいことを言いよるわいと思われるむきもあるやと思いますが、私70翁のたわごとと御笑覧いただければ嬉しいです。その覚悟で延べます。商業の本質は流通である。流通を司る産業が商業であり、司る人が商人である。

経済社会の変化

 私が、大学で経済学を学んでいた昭和30年代後半から40年代初めは、大量生産大量消費の時代であった。スーパーマーケットに、好奇の目を輝かせたものだ。拡大する市場に、オートメーションで規格化され、格安になった商品を、消費者がいかにも自分が主人公になったように、買い求め消費をし、新しいものが出れば惜しげもなく買い換えて欲望を満たしていった。これぞ文明社会の到来と消費生活を堪能した。高等学校の教科書にも現代は商業社会であるという記述で、社会の仕組みを説明していた。その記述から類推すると国民みんなが商人ということになる。ここに商人の影が薄れた原因と、消費生活面の困惑の原因があると思う。

影を薄くする商人

 大量生産大量消費につづいて、私が学生時代にぶちあたった言葉は流通革命という言葉であった。商業の本質である流通を旧来のものは排除して新しいものに改革しようという理論である。問屋の排除である。問屋の排除は商人の排除軽視の風潮を呼んだ。くだらないということばがあるが、これは江戸時代、貨幣経済が浸透してゆき天下の台所上方大坂の目の肥えた「あきんど」の眼鏡にかなった商品でないと消費地江戸へはもってゆけないというところから始まった言葉である。蝦夷で生産された昆布が西回り航路で大坂にはこばらるそこで難波のこんぶに整えられ江戸をはじめ全国へ流通することになる。いわゆる名物の発生である。商人が運んでくる各地の名産名物が流通改革の前はあったが、それが次第に影を薄くしていった。

流通革命は、工場と消費者を直接結ぶという事や、農産物の産地と消費者を直接結びつける事態も生まれてきた。生活協同組合が大量に工場や、農産物の生産者から直接仕入れるようなことも普通になった。生産者も、こうした傾向は、地産地消という概念の普及もあり、高速道路のインターチェンジ付近に道の駅と称する休憩所に、その近辺の農家が産物を並べて販売することも盛んに行われるようになった。商的農業、商的工業がもてはやされるようになるが、その未熟さから消費者泣かせのごまかし商品や欠陥商品が横行するような時代がメディアを賑わせることになった。

欠陥商品の横行

 並べておけば消費者が、自分で選んで買ってゆく、商売に明るくない者が品質表示をいい加減にして、劣悪な商品を提供する案件が多発するようになった。プロである商人を排除した結果起こった悪い面である。商人はこのような課程は長い歴史の中で克服してきたところであった。

商人の必要性

 目利きの者が、いい商品を選び、在る処から無い処へ流通せしめるプロの商人は、絶対に必要なのである。士農工商の時代、商人は物を動かすだけで利を取るといって悪い風評に対して石田 梅岩先生は商人の利は武士の禄と同じで当然の報酬であると、その妥当性を説いて商人を励ました。コストダウンして安く提供するというこのことだけが強調される時代は過ぎたような気がする。いいものは高くても売れる。この満足ならば、私はこの値段で買ってもいいとい時代だと思う。なにも富裕層だけがそういう買い物をするのではないのである。いい物を選んで市場に出す。市場に出ている商品はいい品であり、この商品を選び市場に出して流通させるのはプロの商人である。この商人の機能が十分に果たせる世の中にすれば、TPP参加をこわがる向きもあるが、商人にその主役になってもらえば、こわがるどころか経済の活性化を創出して増大するという結果を生み出すと思う。商人の目にかなういい農産物、いい工業製品を生産していさえいれば、商人が上手にその流通先を見つけて生産者も消費者も喜ばせるのである。

経済活動の活性化

 経済とはやりくりのことで、生産もやりくりを工夫し消費もやりくりを工夫するこの活動が生き生きとすることが、活性化である。近江商人はその生誕の江戸期から言っている。自分がいきいきとしていて、お客さんもいきいきと満足してそして世間も、あの商店はうまくやっているいい店だといい評価を受ける。そのようにすれば商売は繁盛するというのである。本当だと思う。

まとめ

 国の主権、国境はどこに定めるべきか。それは国民が経済活動をする範囲が、国境である。明治政府開府のころロシアが北海道はロシア領であると迫って来たとき、蝦夷を交易の舞台としていた商人の主張を取り入れて明治政府は堂々と蝦夷地は日本の領土であると主張して、現在の北海道があるのである。流通を本質とする商業は平和な世の中でないと繁栄はしない。商人が気概をもって本来の力を発揮できるような世の中を造らなければならないと思う。経済社会はいろいろな主体が活動するが、商人がその存在価値を発揮できるように、農業、工業、商業のより高度な関係での分業化が今後は必要となるし、そうしなければならないと思う。商業が個人と個人、国と国との経済交流龍を円滑にしてお互いの国の、産業を発展させるものと思う。そのためにも商人は江戸期商人のように気概を燃え揚げさせなければならない。今こそ創世記の商人の心意気知恵才覚で新しい需要を喚起し、正直・倹約・勤勉をモットーにした商人道で世界に日本の農業産物・工業製品を羽ばたかせ、世界の産物を日本に流通させ世界の経済を活性化することが求められる時はないという。(完)

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