正直・勤勉・倹約と私


舎員  藤野 孝夫  .

11.10.23   

はじめに
 昭和の話である。昭和58年4月私は島根県立松江商業高等学校へ転勤を命じられた。40歳の時である。不惑の歳という事で教師人生の初心にかえって商業教育の一端を担おうと12年間勤めた隠岐高校を後にした。

 私の初心は竹中 靖一流の正直・倹約・勤勉を竹中先生がよく言われた「人生至る処青山あり」の志に燃える少年に伝えることであった。ようするに石田梅岩思想を竹中先生のお話の中で理解しえたことを現代風に口伝えのように生徒に伝えることであった。

島根県立松江商業高等学校
 地元では松商という愛称で呼ばれてしたしまれている。明治33年(1900年)島根県立島根商業学校が母体である。
 平成22年(2010年)創立110周年記念式典が松江市浜乃木の学舎で行われた。地元新聞の声の欄にご高齢の卒業生の方が、「私の仕事人生を支えてくれたのは母校の『誠実・質素・勤勉』の精神であった。いろいろな局面でこの言葉を口にして仕事をしてきた。それが誇りである」という趣旨の投稿を寄せておられた。

松江商業高校の校訓
 まさしく、この「誠実・質素・勤勉」が松江商業高校の校訓である。入学式の日からこのことばが、教室でも教師から繰り替えし繰り返し唱え教えられる。校長室にはこの校訓が右横書きで墨黒々と大書してある。時折校長室でよからぬことへのお説教が行われるが、校長さんが読んでみなさいと言われると、右横書きに慣れない生徒は、聞きなれた言葉であっても「べんきんべんきん・・・」と口ごもり、「誠実」と担任が誘い水をすると、それこそ立て板に水で「誠実・質素・勤勉」が出てほっとするエピソードはよく聞いた。

 この額書は明治41年、丹波海鶴書家により制作され今日も、松江商業高校の校長室に重きをなしている。
まさしく、石門心学の、「正直・倹約・勤勉」が、そのまま校訓になっている。赴任した私にとっては。大変うれしかったことを思い出す。私の求める学校がここにあったのだ、ようこそ招いていただいたと島根県教育委員会に感謝したものである。

 
この校訓が確立したのは明治40年に滋賀県立商業学校から赴任して来られた三代目校長堀口米太郎先生であったとされる。東京商業高等学校(現一橋大学)出身の20代前半の若い校長であった。

ゆとり教育との遭遇
 昭和50年代も終わりになるとゆとり教育が文部科学省から唱えられはじめ、教育現場は混乱した。専門学校では資格取得が目標の一端であったから、物の基本だけ教えればいいとするゆとり教育は受け入れなれなないということであり、迫りくる資格試験に、ゆっくリズムは教育実践上矛盾があるというのである。エッセンスのみでは耐えられないはずである。東京で教育課程の文部科学省主催の研修会があったので私はその教育現場の混乱を説明し質問した。説明にあたっていた調査官の答えは、質問した私を小ばかにして、「先生方が理解できていないのは、生きる力ですよ。いきる力をいかに育てるかが大切です」

 しかし、ゆとり教育ははたして崩壊した。やはりきちんと教えなければならないことはきちんと教えなければならないのである。

教育で大事な事
 円周率を3.14などでなく3でいいとか、基本だけでいいというので説明を簡略化して教科書を薄くしたり手ぬきは教育には許されないと思う。繰り返しどの教師も自信を持って教えることが教育の基本でないといけない。

 教育理念も、人生観になるように卒業するまでに、人間としての精神的バックボーンになるように涵養を手助けするのが教師の務めだと思っている。

おわりに
 私が経済学を学んでいて教師になりたいと思い立ったのは、竹中 靖一先生の説かれる石門心学の経済思想であった。商業は産業の根幹をなすものであるが、相手が人間ゆえにごまかしや不正が生まれる。それを防ぐのが「道義」とりわけ商業道徳の「正直・倹約・勤勉」の心の育成だと思ったからである。それを実践している高校が島根にあること、また島根には松江のほか安来・出雲・浜田にも県立単独商業高校、隠岐高校等に商業科を併設して、高度な資格試験合格や各種商業コンテスト・イベントを通じて盛んな商業教育が実践されていることを紹介し文を閉じたいと思います。(終)

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