心学明誠舎理事長 
大阪21世紀協会理事長 

堀井良殷
2009.4.24

   

 オバマ大統領が演説のなかで、「アメリカが直面する危機がいかに大きく深いものであっても、希望とVirtueがある限り必ず危機を克服して我々は蘇る」と述べたのを聞いて以来、Virtueという言葉にひっかかっている。テレビでは美徳と訳していたが、辞書を引くと、徳、美点、長所などと並んでいる。アメリカの長所というならわかる気もするが、徳といわれると一体アメリカの「徳」とは何なのか考えこんでしまう。そもそもこの度の経済危機で世界中をまきこみ各国に大迷惑をかけているのも、アメリカが市場原理主義を振りまき押し付けたからではないのか。
 オバマ大統領がいうように強欲な人たちによって資本主義がすっかり変質してしまった結果であり、マックス・ウェーバーが予言したとおり、あくなき利益追求者たるレッツテ・メンシェンが世界を壊してしまったと思えるからである。
 日本人には感覚的に徳について、社会の共通理解がいまも存在する。
 儒教、仏教、神道の影響下に永年にわたって醸成されてきたと考えられる徳の概念を一一〇年前、新渡戸稲造がその著『武士道』のなかで述べている。彼は自由、平等と平和のために献身すべきノーブレス・オブリージュ、つまり「仁」を唱えた。そして品格ある精神や人格の日本固有の淵源を武士道に求めたのである。曰く「功利主義者および唯物主義者の損得哲学は魂の半分しかない屁理屈やの好むところとなり詭弁家、経済家、計算家の新時代を鳴り迎えている。
 しかし経済や軍事で勝利するのではない。活力を与えるものは精神であり、それなくしては最新の器具もほとんど益するところはない。
 時代は移り変わり、かつての武士道の精神も体系としては滅んでゆくだろうが、必ず徳としてながく生きるであろう。その香りは遠き彼方の見えざる丘から風に漂って来るであろう。その徳の香りを見つけ帽をとりてその祝福を受けるべきである。」(要約・堀井)
 新渡戸は徳の淵源を武士道に求めたのである。
 梅棹忠夫著『文明の生態史観』によれば日本と西欧は相類似した文明を期せずしてユーラシア大陸の東西両端で発展させてきたのだという。これを東西それぞれの文明を支えた精神的支柱構造からいえば武士道と騎士道といえるのではないだろうか。
 とすればアメリカの徳はその淵源を騎士道に求めることができるのだろうか?

   商人道

 武士道、騎士道とならんで日本には世界に誇るべき商人道があったことはもっと知られてしかるべきである。
 NHK時代からの友人、大塚 融氏が心学の資料を持ってきてくれるまでは私も殆ど無知であった。江戸時代──徳川家康が江戸に幕府を拓いた時、江戸は小さな漁村に過ぎなかった。そこに徳川旗本八万騎、これに家族や家臣を加えるとそれだけで数十万人になる。参勤交代でやってくる全国からの大名や家臣群、江戸詰め武士たち、都市建設のために全国から集まる職人たちや労働者、みるみる膨れ上がる人口を支える消費物資の生産力は江戸にはなく、まずは大阪の市場で調達して船で江戸に運ばなければならなかった。このため河村瑞賢に命じて港湾や水路、海路の整備を行っている。一七世紀、膨張する江戸の経済はいわばバブルでありその頂点が元禄時代であった。天下の台所の利益を大阪、京都の商人はたっぷり享受したのだが、富を得ると心に驕りが生ずるは世の常、「甘き毒を食らいて自ら死するような」悪徳商人が跋扈しはじめた。
「屏風と商人は折れ曲がらずば立たず」と非難される始末。
 士農工商という身分制度のなかで商人は士から見下げられる立場とされ、江戸の儒学者からは「不定の渡世の商人はつぶるることをば、かつてかもうまじくー」「町人と申し候はただ諸人の禄を吸い取り候ばかりにて、ほかに益なきものにござ候。実に無用の穀つぶしにこれあり候」とこきおろされた。
 これに対して敢然と立ち上がった男たちが京、大阪に現れた。これが図らずも商人道を生み出すこととなり、日本的資本主義の出発点となったのである。

   懐徳堂

 町人とて学問をせねばと大阪の五人の富裕商人がスポンサーとなって一念発起はじめた学問塾は懐徳堂と呼ばれ、一七二四年から連綿一八六九年まで続いた。三宅石庵、中井竹山、草間直方、山片蟠桃など大学者を輩出した世界トップレベルの学問所であった。三宅石庵(一六六五-一七三〇)は「利は義なり」として商人の行動も他の社会構成員と同じく義によって位置づけられなければならない。「仁義をするものは利はせねども、自ら利がついてまはるなり」と説いた。
 中井竹山(一七三〇-一八〇四)は「商人の利は士の知行、農の作徳なり」として商業活動は義であり非難されるべきものではないと断じている。商人道の基本は義、つまり社会貢献にあるというのだ。

   石門心学

 京都の商家に勤めていた石田梅岩(一六八五-一七四四)は独学で勉強を続け、ついに独自の境地に達して心学の講義を始める。他の心学と区別するため「石門心学」と呼ばれ全国に普及した。
 石田梅岩は「天に二つの道あらんや」と商人が正当な利益を得るのは、社会にそれぞれの立場で貢献しているのであって武士が俸禄を得るのと同じであると主張し、武士が商人を見下しているのは間違っていると反撃する。しかし商人に対しても社会的役割を自覚しなければならないとし、「まことの商人は先も立ち、われも立つなり」。
 つまり相手に喜んでもらってこそ自分にも利が許される、商人の存在理由は人を幸せにすることにある、と主張し、そのためには「心をみがき、正直であり、勤勉であり、倹約しなければならない」と戒めた。
 これは「利他と利己の調和」を説くもので、ここに至っておのずと想起されるのは余りにも有名なマックス・ウェーバーの著書「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」である。

   ベンジャミン・フランクリン

 マックス・ウェーバー(一八六四-一九二〇)が資本主義の精神的基盤を解き明かしたのは石田梅岩より一五〇年以上も後のことであるが、その著に登場するベンジャミン・フランクリン(一七〇六-一七九〇)は石田梅岩とほぼ同年代の人である。いわゆるフランクリン一三徳といわれる徳目がありアメリカ資本主義の発展をもたらす行動規範の典型とされている。節制、規律、節約、勤勉、誠実、正義、謙譲などなど並べてみると大阪の商人道と驚くほど似ており、洋の東西で期せずして資本主義の精神的基盤が始まったことが見て取れる。
 となればアメリカでいう「徳」とはプロテスタンティズムを根源とすると考えるのが自然なのだろう。
 さてアメリカの徳と日本の徳は同質かどうかを考えたい。アメリカがプロテスタンティズムから出発するとすれば、日本の武士道や商人道は儒教、仏教、神道を根源とする。従って同じ徳をめぐっても表面は驚くほどよく似た行動規範であるが、深いところでは違っている筈である。言い換えればアメリカ型資本主義と日本型資本主義は深いところで違うはずであると私は考えていた。

   資本主義の自壊

 いまベストセラーの中谷巌氏の著書『資本主義はなぜ自壊したのか』(集英社インターナショナル)で中谷氏も石門心学に触れている。江戸時代に大阪で武士道に対抗して商人道が作り出され、信頼関係こそが市場の基本であるという目に見えないインフラ社会資本がそのことによって出来たとして、他者との連帯の重要性や他人からの信用を得るのが成功に至る最善の道とされたことを高く評価している。そしてこの商人道は日本が近代社会になっても失われることなく受け継がれ日本経済の資本主義化の鍵になったとしている。
 ところがこうした日本的商人道に対して、近年批判の先頭に立ったのがほかならぬアメリカであったという。中谷氏はこの著書のなかでさらに中国との比較考証や日本再生への提言へと筆を進めているが、日本の将来を考える上で決定的に重要な指摘が行われていると思う。またそれらのことについては別稿に譲ることとしたい。
( 雑誌「千里眼」掲載の「春秋(23)」から転載 )
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